2020年12月31日木曜日

はじめに(2016/Dec/29更新)

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2017年6月29日木曜日

「怪物はささやく」(フアン・アントニオ・バヨナ監督、ギャガ、2017)

 どうして空想の世界に浸るのだろう、と悩んだことがある。これが音楽やら言葉やら絵やら演技やらに秀ていれば、そういう道に進むこともでき、空想も自分の糧となったと胸を張れただろう。悲しいかな、僕は才能がないので、空想は単なる空想で、しかもその世界は当時ハマっていた映画やアニメのパクリでしかなかった。いわゆる二次創作ってやつだ。確かオリジナルキャラも出ていたような気がする。そういう遊びを小学校2、3年生から行い、思春期に悩んだ末、いつの間にか空想の世界への扉は閉ざされていた。
 この映画も空想の世界=物語が1人の少年にとってどういう慰めになるか、慰めになっていたか、慰めとなるべきかを描いた作品だ。主人公である少年の現実は過酷だ。母親は闘病生活、友人はいなく学校ではいじめられ、祖母とは全くと言って良いほど性格が合わない。そんな彼が見出した希望が空想への旅であり、そこから脱却し現実を直視するまでの過程が描かれている。映画のメインビジュアルには怪物が出てきたり、あらすじではその怪物が3つの物語を語るとあるが、映画が始まって少し経つとそれらがメタファーであることがわかってくる。
 少年の深層心理であろう怪物(ちなみにこの「深層心理」という言葉、何にも語っていないことに気をつけよう)が語る物語は、当初は何にでも取れるような曖昧であやふやな寓話だったものから、徐々に少年の置かれた現状と少年の行動原理を表したものに変わってくる。例えば1つ目の話は善人と伝えられた人が悪人で悪人と伝えられた人が善行を行っていた、みたいなもの。この作品では物語パートは影絵のようなアニメーションで描かれ、それが綺麗なのだ。1つ目のお話の段階ではまだ物語の意味はわからない。だが、2つ目は治療方法を信じなければならないという少年の現状にやけにリンクしたお話。これはもう、少年が信じたいことを怪物に仮託して自分に語らしている。そして3つ目は無視され続けた透明人間が怪物を召喚して暴れるお話。視聴者は、怪物がとうとう少年の欲望をささやく存在に、中立な立場ではなくなり少年の深層心理そのものになったことを知る。一通り暴れた少年が校長室に呼ばれ、問い詰められる中で「自分がやったのではない」と答えるシーンが印象的であった。恐らく少年は自分で暴れることを選択したとは思っていないだろう。
 しかし、とうとう少年は怪物と折り合いをつける時がやってくる。怪物は少年に真実の物語を語らせる。真実とは何か。なぜ少年は怪物なんてものを作り上げざるを得なかったのか。それが明かされるのは、意外とあっけない。肉親の看病をしたことがある人にとっては、口には出さなくても考えたことはあるはずだ。大人なら一時の気の迷いで済ませそうなことだが、少年にとっては罪悪感を抱くことなのだろう。それに目を背けるため、怪物を呼び寄せたのだ。
 自分の感情を直視した時、少年は母親と本当にわかりあえる。上で怪物は少年の深層心理と書いたが、それはフェイクで、母親こそが怪物またはそれを産んだ存在だった。最後のシーンで少年が母親のクロッキー帳をめくるのが印象的だ。肉体としての母親は無くなったが、記憶はもとより、母の作った空想は少年に受け継がれている。これこそ、空想が、物語が人間にとって大切である証拠ではなかろうか。

「ラ・ボエーム」(日生オペラ)

 この前、日生オペラのラ・ボエームを見たのだよ。
・日本語オペラは初めて。
・今までは字幕すら見ていなく、言語をそのまま聞くだけだったので、ある意味でセリフを歌として聞いていたため、重唱はこういうセリフなのかと驚いた。
・重唱は聞き取りにくかったが、日本語のせいなのか(母音が頻出すると聞き取りづらいと聞いたことがある)、もともと重唱が聞き取りにくいものなのかどちらだろう。
・しかし、重唱でのセリフがああいう感じで聞き取りづらいってことは、原語でも理解しづらいであろうからに、こればっかりは原語+字幕で見てもわからないなあ。
・何にせよ、内容を理解するレベルでオペラを見たのは初めてだったので良い経験であった。
・日生オペラ、安くて、でもちゃちくなくて素晴らしい。これからも見に行こう。
・パンフレットを買おうとしたら無料(チケット代に含まれている)でもらえ、しかもあらすじやキャストや作品の背景まで載っている豪華なもの。映画だと1000円クラスの品では?

2017年6月20日火曜日

「あなたの人生の物語」収録の「あなたの人生の物語」(テッド・チャン)

 「メッセージ」を見て、改めて「あなたの人生の物語」を読みたくなったのでそれだけ読んできたのだよ。
・小説では良い意味でのご都合主義(他人や相手を指で指すジェスチャーが宇宙人も同じだったとか)が、映画では説明不足だった。僕は「メッセージ」で宇宙人と地球人でジェスチャーが同じなのはおかしいと書いたけど、小説では言及があったのね(というより映画は単にラッキーなだけだった)。
・小説だとフェルマーの定理→あらかじめ目的がわかっている→フェルマーの定理を基本とする宇宙人は未来を知っている、の順番で伏線があったのに対し、映画ではそこら辺が駄目な感じでぼかされていた。映画でボロクソに書いた理由はろくに小説の伏線を入れてなかったからなのね。
・未来を知っていても自由意志はある、と断言する理屈は小説のほうが上手い。映画だと未来を知っているなら、何でその通りに行動しなければならないの? という理由付けが薄い。この、自由意志の問題は小説でも映画でもテーマだったので、映画は人死お涙頂戴モノになってしまったと思う。
・そもそも小説では僕がメッセージの感想文で不満を述べた部分への理屈がちゃんと書かれており、映画は本当に言葉足らずだと思う。
・でも、異星人が地球に来た目的や、クライマックスの緊張感は映画のほうが上手。さすがハリウッドだね。ちなみにこれは皮肉も混じっている。

2017年6月5日月曜日

「劇場版BLAME!」(瀬下寛之監督、ポリゴン・ピクチュアズ、2017)

 まさかこの作品が映画化されるとは思ってもいなかった。原作は好きだが、正直、キャラクターが生きてるのか死んでるのか、人間なのかロボットなのか、そもそも現実なのか電脳世界なのか、回想なのか現在の出来事なのかわからない絵柄で(褒めてます)、ストーリーもセリフが少ないこともあって何回も読み返さないと何が起きているのかよくわからないマンガだった。ページをめくるのにも時間がかかり、マンガを読み飛ばさせない戦略はかくの如く行うのかと感心したものだった。
 なので、映像化、それも2時間ほどの映画になると聞き、どうなるのか興味があった。

 映画を見て感動。原作では単なる1エピソードに過ぎない物語をよくぞここまで膨らませたものだ。何よりもちゃんと視聴者が感情移入出来るようになっている。原作者の弐瓶氏自体、アニメ化もされたシドニアの騎士は読者にわかりやすい物語を展開させていたが、まさかBLAME! もこういう風にできるとは。BLAME! にも人間が感情移入できる要素はあったんだね!

 キャラクターもCGで描かれたが、もう素人目にはセルアニメと変わらない。シドニアの騎士でも相当美麗なキャラデザイン・背景だと思っていたが、劇場版ということもあってかさらに進化している。ハードルがどんどん上がる。CGアニメってピクサー/イルミネーション系列のあからさまな立体感を求める路線が主流だけど(そもそも映像なんだから立体感は必要か)、わざとセルアニメっぽくノッペリと描く今作は平面的な絵柄の進化系だと思う。
 また、都市の内部構造も改めて線が整理されていて、こうなってたんだと感動。映像として絵が動くのを一番活かせるアニメである。都市ばかりでなく、各種ガジェット、重力子放射線射出装置とか、携帯食料とか、もろもろも動きのお陰でリアリティが出ている。
 しばしばヘルメットなど主観映像(?)が出て来るが、単なる雰囲気だけの要素にとどまらない。サナカンに殴り掛かる霧亥。格好良い! 霧亥のネット端末遺伝子なしの光景だけが延々と描かれていて、なんかターミネーター2っぽいと思っていたが、こう来るとは。あの殴り掛かるシーンはこの作品で1、2を争う傑作だと思う。

 音は事前に言われていたように素晴らしい。もっとも上映環境にもよる。家で見ると映画館のような上映環境はないので、多少評価が落ちるかも。ニコ生での制作者の発言によると、見えていないシーンでも視聴者の背面で効果音を鳴らしているくらい音響には気を使ったらしい。うーん、家で手軽に映画館みたいな環境を楽しめれば良いんだが、多分普通のスピーカーやヘッドフォンじゃ何が何やらわからなくなってる可能性がある。ネットカフェとかでそんなサービスやってたら、ちゃんとこの作品の円盤握りしめて見にいくぞ。

 というわけで映画館で数回見れて良かった。恐らく家だとこれほどの感動はないだろう。もっと弐瓶氏の作品が映像化されれば嬉しいし、またポリゴン・ピクチュアズがより活躍できることを応援している。

「メッセージ」(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、フィルミネーション他、2017)

 これ、ウィキペディアで調べたら、アメリカ公開は2016年11月なのに日本公開は2017年5月なのね。何でだろ。
 というわけで先週土曜に「メッセージ」を見てきたのだった。
 原作であるテッド・チャンの「あなたの人生の物語」はその物語構造もあってすっごくつまらない作品という印象しか残っておらず、予習しようとして内容が思い出せなかった。正直、これ以外もあまりあまり面白いと思えなく、僕はテッド・チャンとの相性は悪いんだなーと感じた。

 さて、この作品の肝であるサピア=ウォーフ仮説……ではなく、この作品の一番の特徴は未来が決まっているという決定論的宇宙観だろう。サピア=ウォーフ仮説なんてものは確定した未来というネタを料理するための小技に過ぎない。
 地球にやって来たエイリアンは3000年後の未来が見えるため、人類にそれを伝えに地球にやって来たというプロットだが、恐らくだけどエイリアンは時間移動はできないみたい。決定論的宇宙観を採用するなら時間移動も可能となるはずだが、それは行えず(時間移動が可能ならわざわざ今地球にやってくるのではなく、直接3000年後に行くか、または地球人が終末の日を迎えるきっかけの時にやって来た方が効率的だから)、しかし情報は時間を超えて移動できる模様(主人公が現在知らない情報を未来から取り寄せている描写より)。
 正直、かなり都合の良い設定であると思う。いや、この作品のテーマは「未来がわかっていても何もしないよりした方が良い」というものであり、それが主人公の娘の早すぎる死で表現されている。エイリアンの言語を学ぶうちに未来を見通せるようになった主人公は、自分が産む子供は若くして死ぬことがわかっていながら、でも産みたい・子供を持ちたいと恐らくは思って子供を産んだのだ。劇中では子供の生から死までしか描かれていないが、でも主人公の人生はまだまだ続くし、はっきり言って子供だって死んでそれっきりというわけではないよね。芸術家みたいに死んで有名になったり、生前から有名で死んでも惜しまれたりと、死というのはその人にとってはそれで終わりかもしれないけど、でもそれが全てではない。このような理由から「あなたの人生」が死ぬまでしか見えないのがご都合主義だと感じた。
 さらに考えると未来を見通せるってことは子供を持った経験や感情すらすでに現時点でわかっているので、今から子供を作る必要はないのではと思ったけど、わーおタイムパラドックス。
 そう、この作品、深く考えるとどうしてもタイムパラドックスがちらついてしまうのだ。そもそも僕達人類の脳ってもしも未来が確定していても未来を見通す能力って持っているのだろうか。主人公は英語という言語で未来を見通せない脳になってしまっているが、サピア=ウォーフ仮説は脳の制約以上の能力をもたらすことが出来るのか。
 ついでにもう1つの問いとしては、言語学者である主人公はエイリアンに人間の作法で言語を教えあってたけど、人間と姿形の異なるエイリアンに対して果たして通じるのだろうか。これだけでなく、主人公って基本的には慎重なんだけど変なところで大雑把なんだよな。というのも、ケン・リュウの「母の記憶に」に収録されている「重荷は常に汝とともに」で人間が自分たちの価値観で見ず知らずの物を自分勝手に解釈するってことを思い出したから。実際にこの主人公がエイリアンとコンタクト取ったら変な解釈をするのではないかと思った。

 文章全体が「あなた」に捧げる形で書かれていた原作に対し、映像化したが故に原作の特徴を殺してしまった。映像としてもエッジの効いたものではなく(思い出補正もあるけど、ドニー・ダーコみたいな作品が良かったな)、正直評価しづらい。
 言語SFなら「バベル-17」とか「神狩り」とか色々あるわけで、SFとしては中途半端だし文芸としてはSF要素が脚を引っ張ってる。
 日本の青春人死メロドラマ映画をハリウッドのSF技術で再現し、ついでに説得力を付けるため理屈をこねくり回したら収拾がつかなくなった作品。

2017年5月24日水曜日

「母の記憶に」(ケン・リュウ 著、古沢嘉通 他訳、早川書房、2017)

 この間、第一作目短編集を読み、著者のことを中国系アメリカ人として強調した感想文を書いた。僕はそれが間違っていることだとは思っておらず、しかし今作を読み、1点だけ見誤った部分を発見した。
 著者の作品はSFというよりももっと広い視野を持った空想のガジェットや発想を元に人間について語っているということだ。それはもはやSFですらない「草を結びて環を銜えん」、「訴訟師と猿の王」と「万味調和」を読むとわかる。前回、芥川龍之介を引き合いに出したが、歴史小説の中にファンタジー色の強い虚構を少しだけ入れ込み現代的なものを読ませる手腕は正に芥川龍之介の得意とする手法だったと思う。歴史小説としても、前2つは揚州大虐殺という日本人には全く馴染みのない題材で、後者はゴールドラッシュ時代の中国移民の物語というこれまた日本人にとってはほとんど馴染みのないもの。僕も読むまで出来事すら知らなかったが、事前情報なしで読み始めると意外と状況がわかりやすいのだ。井上靖のような現代人にもわかりやすく、されど中国チックな格調のある文体によってモチーフが不明でも先を読ませ、結の部分までには全体像を把握させる。
 「草を結びて環を銜えん」は前作ほどではないが感情に訴えかける作品だ。それは男を手玉に取り人々を虐殺から守った格好の良い遊女と対比される主人公が勇気がなく器量も悪く頭も悪い普通の人間で、でも最後に彼女ができること、彼女しかできないことをやり遂げた姿が美しいからだ。人情ものとして本短編集の中で1番好き。また、主人公が選んだ彼女だけの生き方は「訴訟師と猿の王」の英雄談義にもつながる。
 これは歴史から抹消された揚州大虐殺について、その事実を知った人間がいかに後世に伝えたか、というフィクションである。正直日本人としては南京事件を喚起させられるが、とりあえずそれは脇に置こう。この作品は孫悟空という英雄が実はそれほど英雄ではなく、一方で処刑された罪人が誰にも知られなかったが英雄であったという逆転の物語だ。孫悟空は主人公と会話するけど、現実に影響を与えているわけではないので、主人公の妄想と言っても構わない。そのくらい非現実要素のない、救いようのない物語だ。主人公は揚州大虐殺が書かれた本を逃し、そのため現代で言う秘密警察から拷問をかけられ殺される。面白いのは彼は何らかの勇気のある信念を持っていたわけではないのだ。そればかりか殺される直前になって後悔したりする。でも、結果として彼しかできないことをやり遂げたことで揚州大虐殺は後世に伝えられ、知る人こそいないが流されたように見えた彼は英雄であった、という筋書きだ。ある意味で「神様は全部見ている」的なキリスト教のお話とも読める。さらに自分のなすべきことを推奨されるのはアメリカ的な思考よりも行動に重きを置く思想として読めた。主人公は自分の行いに納得しているのか、「誰もが知らない英雄的な行い」とは褒め言葉になるのかわからない。なぜなら結局のところ当時は揚州大虐殺が隠されてしまい主人公は負けたからだ(この点が同じように歴史に残っていない英雄を描いたローグ・ワンとは異なっている)。さて、話を南京事件に戻そう。僕はこの事件があったと思っている。この事件については詳しくはないが、それでも両者の主張と根拠を多少読んで、あったと確信しているのだ。これが僕が本短編集を読んでケン・リュウに返せる回答である。
 「万味調和」は正直、前2作に比べると軽く読めた。最後の最後で突き落とされはするものの、何となく明るいのだ。舞台がアメリカであり、時代が近代ということもあり前2作で描かれた蛮行が現れないだろうという安心感。もちろん時代が時代なので人種の問題とか単純に明るいお話ではないが、それでも白人も中国人もフロンティアを求めて移住した同士という希望に満ちた作品である。

 SF系の作品だと、スチームパンクおとぎ話ものである「烏蘇里羆」が面白かった。熊は人に化けるというアイヌ伝説を元に、明治維新で北海道を開墾した人間に追いやられた熊と、その熊に両親を殺された男が機械の腕を付け満州まで復讐に訪れるというハイブリッドファンタジーだ。「紙の動物園」に収録された「良い狩りを」に似てるな―と思って読んでたら解説を読み納得。まさに「似てる」という感想を与えたいのでこんな順番にしたらしい。訳者の手の中だ。「母の記憶に」も短いながらインパクトのある作品。前短編集での過剰なウェットさがなくなり、そのためにかえって心を動かしやすくなったと思う。つまり感動した。最初に読むとどこがSFなんだろうと思えるほど、そのアイデアは慎ましく書かれているが、徐々に普通とは異なる面が現れてくる。実際にこの技術が実現した時7年に1度しか会えないということは、ある意味では死人も同然に、それこそ互いに思い出のコピーとして生きることになるが、それは幸せなのだろうか。凡百の作家ならここで問題提起して終わるが、ケン・リュウの場合は幸せだと、少なくともみんな自分の意思でこの選択を選び、後悔していないと宣言している。
 そんな思い出のコピーというテーマが全面に押し出されたのが「シミュラクラ」。技術としては人工知能を使うことで遠くない未来に実現しそうで、大人の男性である父と思春期の女性である娘とでありえそうな齟齬を描いた作品。一番最後にやっと母親の心の中が開陳されるのが前短編集の「紙の動物園」っぽかった。僕はどちらかと言えば娘の立場であり、娘と出会えないから娘のコピーで心を慰めていた父の心情は理解できるけど同情できない。そしてそんな父を赦せという母の気持ちはもっと不可解だ。テクノロジーにより人間性と乖離が生まれると書くとチープだけど、この作品の肝はテクノロジーではなくそれを使用したことで生まれた父娘のすれ違いなのである。そのためにケン・リュウはSFというフォーマットを使ったのではなかろうか。それが明らかになるのは「残されし者」。人間がソフトウェア化した(作中ではシンギュラリティと表現)という前短編集でも描かれたテーマであり、ソフトウェア人類の姿を描けばグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」みたいな面白い作品になるにも関わらず、描かれるのは離島の限界集落みたいなお話。人がいなくなり自給自足していた村がどんどん寂れる。でも伝統を守るのだ。島を出ていくことは許さん、的なお話。若者たちは表面上、うるさい親父に従っているが、大人になったのを機に親父の目を盗んで、若返ったおばあちゃんが楽しくやってるらしい都会に行ってしまう。うるさい親父が守ろうとしていた伝統=人間らしさとは一体何だったのだろうか、というのがテーマだ。「紙の動物園」と比べた時、今短編集で面白いのは、文字通りの人間らしいウェットさや感情が実はある種の欠陥を人間らしさと言い繕っているのではないの? 的な皮肉な視点が垣間見えることだ。この作品もソフトウェア化を拒んで得られた幸せは主人公の独りよがりなもので、ソフトウェア化した人々は幸せになるなり自分で選択したことで満足するなりしている。前短編集では見られなかったこのあからさまな対比は、「パーフェクト・マッチ」でテーマになっている。いわゆるAmazon的なAIによるおすすめが人間の意思を左右している近未来世界。マトリックスのようにそんな社会から目を覚ました主人公が人間らしさを取り戻す戦いを挑むのだが……。皮肉なのはAIを開発し人間らしさを奪った会社の親玉が「本当に」社会のことを考えていたということ。この会社は確かにマスデータによる客観的な形で差別や暴力性を実体化したが、もっと悪しき意図を持った企業がいくらでもある中それらよりはマシだし、むしろ差別などのある現状はAIの不十分さから来てるわけで、もっと改良しなければと言う。下手に我が会社を排除したら悪意を持った連中にめちゃくちゃにされちゃうぞ、と。もちろん詭弁だ。同時に主人公たちが取り戻そうとする人間らしさも詭弁でしかなく、今までは技術レベルが低かったので差別や暴力を表面化させなかっただけでしかない。改良することで問題を解決する意志のある非人間的世界と、問題を温存する人間的世界のどちらが良いか、という問題を僕らに突きつける(作中のAIの企業って良いことをするって言うくらいだからGoogleをイメージしてるよね)。

 その他SFだと、普通のサスペンスである「レギュラー」は面白いんだけど作中のガジェットである「調整者」の悪影響が描かれなかったので不満。23時間「調整者」を起動させ続けて主人公並みに問題ないなら、みんな23時間起動させれば良いじゃん。悪の視点から見た正義のヒーローものの「カサンドラ」。他の作品の輝きのせいで相対的に落ちてしまった。「上級読者のための比較認知科学絵本」は前短編集の「選抜宇宙種族の本づくり習性」のアップデート版。前の感想文でこの手のギャグSFを長編にすると良いのでは、と無責任に言ったが、短編とは言えストーリーになった本作はかなり面白い。やっぱり荒唐無稽なアイデアSFを物語にした方がこの作者は輝くのではなかろうか。
 別に現代の技術を用いた近未来を舞台とした作品が輝いていないと言うつもりはないが、でも「上級読者のための比較認知科学絵本」を読んだ後で印象が薄れた作品の1つが「存在」。異国の地のケアハウスにいる母をロボットアームを遠隔操作してたまに介護することで後ろめたさを感じないふりをする作品。良くないことだが、読んだあとで著者が中国系で、年長者を家族全員で支える文化があるからこういう作品になったのかなと思ってしまった。生活がある以上、できることとできないことがあるわけで、それでもロボットアームのお陰で現代の介護よりは遥かに「幸せ」な介護ができる社会だと本気で僕は思っている。現代日本のおっさんからすれば持てる者の悩みじゃないの、と感想をいだいてしまった。もう1つ印象の薄れた作品が「ループのなかで」。戦争とPTSDを扱った作品で、人工知能を使えばPTSDはなくなるとしてその開発をするのが主人公。もちろん予想されたとおり誤射を起こし、主人公はPTSDとまではいかずとも精神的なダメージを受ける様式美。イタチごっこという言葉が頭に浮かんだ。子供を使ってテロを行うってのはボコ・ハラムの誘拐のときも散々言われてたことで、チープな言い方だが会議室の中で行う戦争って今後もこの手の現実からの乖離が起こるんじゃないの?

 SFというジャンルを越えた作品では、「状態変化」がパーフェクト。奇妙な味だ。奇妙な味らしくストーリーもネタも紹介しづらいのだが(はっきり言って物語を読まなきゃ面白くない)、「銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件」(アンドリュー・カウフマン)とか好きな人は読んでみると良い。比喩も落ちも満足できること間違い無し。
 SFの皮を被ってSFではない「重荷は常に汝とともに」。シチュエーションのためだけにSFの振りをする姿が小憎らしい。内容は異なる文化を理解する上でのロマンと思考の限界といったところか。ロマンを与えなければ遺跡発掘の費用がおりず、でもロマンを求めて巡礼する人によって遺跡がダメージを受ける皮肉っぷりは現代の各種研究にも通じるだろう。
 歴史改変モノというか、事件らしい事件が起こらないファンタジー世界のような「『輸送年報』より「長距離貨物輸送飛行船」」。日常系の異世界モノであり、異世界で人々が暮らす様子が生き生きと描かれている。本当に何も事件が起こらず、主人公が飛行船に乗る様が随筆のように書かれるだけなんだけど、その描写力がまたリアルなのだ。正直、事件を起こさないなら異世界を舞台にする必要があるのかわからないが、ページをめくらせる描写力は素晴らしい。


 上の感想文内ではSFに分類したけど、「存在」「シミュラクラ」「ループのなかで」「パーフェクト・マッチ」は文学と言っても良い。未来を見据えた実現可能な技術で、将来議論になりそうな問題提起をしている。少し近視眼的すぎるかとも思えるが、技術と社会、そして技術と人間について描いている。
 ケン・リュウの作品は人間性について描いていると言われており、前短編集ではそれがアジア的叙情性だと考えていた。クラークやイーガンなど欧米人のメンタリティを持った人が書くSFとは感情移入を促す点で異なっていたのだ。今短編集ではむしろ必要以上にはアジア成分を入れておらず(題材がアジアンなのは「草を結びて環を銜えん」、「訴訟師と猿の王」、「万味調和」、「烏蘇里羆」)、それらもお涙ちょうだいにはなっていない。
 素晴らしい作品だった。個人的には真正面からのSFではない「烏蘇里羆」「草を結びて環を銜えん」「上級読者のための比較認知科学絵本」「状態変化」あたりが大好き。中国モノ、歴史改変スチームパンクモノ、ワンアイデアのSF小品は非常に優れている。まだ編集されていない短編があるらしいので、早く書籍にしてほしいと思う。