Tellurは、……現在色々物色中です。

妖怪HUNTER(井上淳哉、新潮社、2011)

2011年9月20日  2017年2月24日 
 諸星大二郎氏の稗田礼二郎シリーズのリメイク。そういえば諸星氏は妖怪ハンターという名称を嫌っていたはずなんだけど、タイトルになってしまって大丈夫なのかな。

 この作品は井上淳哉氏の手によって「闇の客人」がリメイクされたものだ。極めて今風な作画となり、もともと1話完結作品だったものが1冊3話になったために原作にないシーンもたくさん出る。まあ、諸星氏というか稗田礼二郎シリーズはどれもかなりネタが詰め込まれてすぎて半分アイデア集同然になってしまっているために純粋にすばらしいと思う。ただ……かなり線のはっきりしたタッチであるため、原作にあった背筋がゾクゾクするような描写が消えてしまったのは悲しい。
 僕にとって一番受け入れがたかったのは最初の方の稗田礼二郎の講義だな。パンチラとか萌え展開とかそんなのはどうでも良い。覚悟はしていた。しかし諸星氏に描く稗田礼二郎は確かに一般的とは言いがたい学説を主張しているが、オカルトまで足は突っ込んでなかった。「海竜祭の夜」で確認した所、神話に出てくるキャラクターと妖怪や民話を結びつけたために妖怪ハンターと称された経緯があるが一応オカルトとは手を結んでいなかった。それに対して井上氏の稗田礼二郎はいきなり異界の存在がいると電波を発信してしまっている。細かいながらも稗田礼二郎の性格が全く違っていることの現れだ。ちなみに稗田礼二郎自体はシリーズを通して色々不思議な体験をしているのだが学説としてオカルトめいた主張はしていない。つーか、井上版稗田礼二郎の主張ってのは一般的な神秘主義者に過ぎないんだよね、「神の力は実際にあったと信じています」(p.10)ってのは。諸星版稗田礼二郎ならば「魔障ヶ岳」みたいに神でも悪魔でもあるマナが存在するってな言い方になるだろう。

 それはともかくとして、ネタばれしても問題ない気がするから原作を要約しよう。
 豊穣のために鬼や神を招く儀式を題材に取っている。ある地域ではかつて毎年神を招く儀式で人死が発生していた。今では途絶えてしまっていたが、村起こしのために今風に復活させた。実はその儀式は豊穣を呼ぶために招いていた存在への生贄という面もあった。異界より現れる存在を人間がより好みをすることはできない。だからそれが悪しき存在であれば慰めるために生贄を与える必要があったという。また、村は余りにも貧しかったために豊穣がやってくる異界へ行ってしまう人もいて、それが神隠しとして伝えられていた。そして伝統通りでない儀式を行ったために、大事件となってしまう。そんな物語だ。
 井上版も大筋は原作に準拠しているのだが、細かい点が、しかし物語の肝心な部分が違っている。そのために微妙に内容が変わってしまっているのだ。
 大きいのはラストシーンだろう。痴呆気味だった老人(ヒロインの祖父。諸星版にはヒロインなんて出てこないけど)が鬼を異界に誘導し、そのまま居なくなるのだが、何と異界に入ると痴呆が治ってしまうではないか。しかも物語中で死んだ重要登場人物が異界の中で復活している、というオチまでついている。諸星版ではこのシーンは老人が異界に行ったまま消え去るという神隠しを想起させるのだが、これでは意味が180度違ってしまっている。諸星版は人間に対して中庸な存在を描いていたのだが……。そして諸星版で異界に消え去るってのは純粋に現世の貧しさからの逃避として描かれていたのだった。
 これ以外にも、井上版は異形・異界=人間の敵と考えている節があちこちに見られる。例えば78ページ「本物の客人!?(中略)やはり異形のモノは実存した……(中略)これが……祭りが危険たる所以だったのだ……」とか98ページ「しかもこの神は人を襲う……悲劇はくり返される……」みたいな、諸星版を知ってると違和感がかなりあった。
 別にリメイクの是非を言っているわけではなくて、原作との乖離があり、しかもそれが物語の重要な部分にかかってるのが問題なのだ。この作品が稗田礼二郎とは全く関係がなければ、現代的な伝奇ホラーとして評価できたと思う。その意味では諸星大二郎というブランドに負けたということか。諸星氏はオカルトに対してかなり中立的な描き方をしているから違和感が大きかったということで。何度も言うけど、オリジナルの作品なら素晴らしいんだけど。
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