Tellurは、……現在色々物色中です。

イントゥ・ザ・ウッズ(ロブ・マーシャル、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、2014)

2015年4月4日  2017年2月24日 
 ちょっと拍子抜けした作品。おとぎ話を今風に解釈するという僕好みの題材だが、あまり心に響かなかった。何というか、90点を期待したのに70点の作品だった感じ。要素要素は面白かったが、なぜか全体で見ると印象に残らない。
 その理由はわかっている。序盤、魔女がパン屋夫婦に求めたものは、赤い頭巾・靴・黄色い髪・白い牛だった。それがこの物語の全てを、限界すらも現していたのだった。

 この作品はおとぎ話を下敷きにしている。視聴者は聞き慣れた物語がどのように絡み合うのか・アレンジされるのかを楽しみにしながら見るだろう。
 選ばれたネタはシンデレラ、赤ずきん、ジャックと豆の木、ラプンツェルの4作。それとオリジナルのストーリーである子宝に恵まれないパン屋夫婦と魔女の物語がおとぎ話の登場人物たちと時には対立し、時には協力しながら迫り来る危機に立ち向かうのだ。
 ……なんだけど、まあはっきり言って、おとぎ話同士の絡みが薄いことこの上ない。なおかつ、オリジナルストーリーとの融合も弱い。
 それを象徴的に表しているのが最初に挙げた魔女が要求した4つのアイテムだ。

 よく読めばわかると思うが、赤い頭巾は赤ずきんから、靴はシンデレラから、黄色い髪はラプンツェルから、白い牛はジャックと豆の木から。つまり主人公のパン屋夫婦はそれぞれの物語からそれぞれを象徴するアイテムを1つずつ魔女に渡さねばならないのだ。……いや、そのやり方って物語同士を絡ませる方法としては一番安易じゃないですか。
 そんなわけで物語の前半はまるで出来の悪いRPGでフラグのためにアイテムを右往左往して集めるがごとくオリジナルキャラと各物語のキャラが交わる。ええ、もう○○を手に入れた、△△を手に入れた的淡白さ。
 正直、魔女が要求するのは何らかの抽象的な物体1つで、それを探したパン屋夫婦が各キャラを丸裸にしつつ(オリジナルを元のストーリーと絡ませる)「見つけたぞ!」→「違った!」という展開を元の4作品のキャラ同士で行って(4作品のキャラ同士が絡む)、みんなで発見するという筋の方がはるかに良かったと思う。
 ちなみにオリジナルキャラとおとぎ話のキャラが交わらないシーンは他にもある。
 魔女はラプンツェルにしかおとぎ話の配役を与えられていないのだ。確かにジャックと豆の木はそもそも魔女が出てこなかったし(イントゥ・ザ・ウッズの魔法の豆は魔女の豆だけど、別に魔女由来じゃなくてもストーリー作れそう)、赤ずきんにも魔女は出てこなかった。でもおとぎ話中に配役がないから出さなかったで終わったら映画のストーリーには参加できないよ。
 なお、パン屋夫婦も前半でおとぎ話への関わりが薄いのは同じこと。猟師の役割を全うできた赤ずきんとは関わったと言えるが、その他は対して影響していない。特にラプンツェルに至っては、ラプンツェルの髪を奪ったにも関わらず、その後も王子様は不自由なくラプンツェルの塔に出入りできた(あのシーンを見たら、普通は王子が塔に登れなくなったと視聴者は思うはずだ)のだから髪を奪うプロット自体いらなかったんじゃないの? (余談だが、ラプンツェルは後半でもいち早く物語から去ってしまうため、正直存在自体いらなかったと思う)

 そして前半ラスト~後半の最初。いきなりプロットに不安を感じさせる。シンデレラと王子、そしてラプンツェルと王子は結ばれた。パン屋夫婦も子供を授かり、魔女は若さを取り戻し、ジャックは財宝を手に入れた。あれ、赤ずきんは……? そう、赤ずきんのストーリーの解決が早すぎたせいでおとぎ話的幸せの象徴である結婚シーンに参加できてないのだ。魅惑の狼もどんでん返しすらなく一瞬で殺されちゃったし、赤ずきんのストーリーをもう少し引っ張ったほうが良かったと思う。
 それはともかく、映画後半でやっとおとぎ話的めでたしめでたしのその後のストーリーが始まる。なお、後半はキャラクター同士がちゃんと絡んでるので特に突っ込みどころはなかった(プロット上の矛盾点はこの際気にならん)。


 「ハッピーエンドのその後」の物語と紹介されているが、テーマがわかりやすい(そして中々に深い)のはさすがディズニーと感じた。
 それぞれのキャラクターは願いまたは望み(wish)を異界である森で満たし、現世に持ち帰る。もっとも、その充足はあくまでおとぎ話基準のものであり、「その後」つまり現代では現実が待っており、さらに時としておとぎ話的幸せすら牙を剥くことがある。本当の幸せのため、行きて帰りし物語……つまり映画では森として描かれているが、おとぎ話など親から子への言葉は何をキャラクター達に与えるのか、がテーマだと感じた。森(メッセージなど)はキャラクターに何かを与えている。それが彼ら彼女ら受け手の願いなのか否かは受け手にかかっている。
 パン屋の夫は自信(子供は自信を得た男の象徴か)を得たが妻を失った。パン屋の妻は子供を得たが欲を出してしまい、それが原因で身を滅ぼした。赤ずきんは大人になったが恐怖を知った。シンデレラは王子と別れたものの、自分の意志を得た(前半で王子に自分を探させようと靴を置くシンデレラの小ズルさや主体性のなさの対比は定番の展開とはいえ見応えがある)。ジャックは広い知見を得たが母を失う。ラプンツェルは母親の愛(物語では魔女が母親のように愛を注いでいる。まあ、子供を縛り付けるタイプの母性という描き方だが)を拒絶し、遠い世界に王子と共に旅立つ自由を得る。
 みんな何かを得る代わりに何かを犠牲にし、それでも立ち上がらざるを得なかった。そのシーンで歌われるNo One Is Aloneの曲はやっぱ感動したなあ。ぜひともサントラで聞いてみたい。



 この記事の前半でいやみったらしく書いたようにイントゥ・ザ・ウッズの映画には欠点がある。でもメッセージ&歌はぜひとも聞いて欲しい。







<余談>
・ライアーソフトのForestはこの作品を下敷きにしている、またはテーマの一部を借りてるのかな。
・赤ずきん役の役者はやたらに童顔だと思ってたら本当に子供だったのか。肩幅があるから大人だと思ってた。
・パン屋の妻は一見素朴(というかモッサリ)なんだけど、よく見たら美人という中々レベルの高いメイクをしている。
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