Tellurは、……現在色々物色中です。

「ジュラシック・ワールド」(コリン・トレボロウ監督、ユニバーサル・ピクチャーズ、2015)

2015年11月23日  2017年2月24日 
 こういうテーマパークに行ってみたい。
 第一作目の「ジュラシックパーク」が1993年。それから22年後にやっとテーマパークが公開されたのだ。登場人物も一新され、当時の惨劇を知らない子供や金儲け以外に興味のなさそうなヒロイン、ラプトルの調教に命をかけた主人公(この人もどこかズレてる気がする)をメインキャラクターに据えてついにテーマパークを襲う悲劇を描いた。
 思えば「ジュラシックパーク」は台風の影響でオープン前に惨劇が起きた(カオス理論的に関係ないものが重大な事態を引き起こすの暗喩か)のでテーマパーク感がなかった。被害者が圧倒的に少なすぎた。テーマパークというか、孤島の冒険ものと言っても良い感じである。今作は違う。来客を襲う翼竜の群れ。逃げ惑う人々。対抗する警備員。どう見ても武器の質や量が不十分だね!


 今作の情報を聞いた時は人工的に恐竜を作ってそれがラスボス? それじゃただのモンスター映画だろうとバカにしていた。ジュラシックパークシリーズはあくまで実在したであろう恐竜が人を襲い、それが怖さになる。もちろん恐竜も動物でしかないから死ぬときはあっさり死ぬ。恐竜を殺させないようにシナリオを作り、そして無力な人間を演出することで楽しませる映画になっていたと思う。下手に新種を作ると単なる怪獣モノになってしまわないかと心配していた。
 実際に今作を見ると人工的な恐竜にも必然性があって安心。新しいテーマパークを作るのと同じようにまだ見ぬ恐竜を創りだすんだって。ジュラシック・ワールドの運営元がどんな理念の持ち主か端的に示す発言であり、かつ怪獣を登場させる必然性に繋がる。現実世界でもこの手の未来の安全を軽視したチキンレースの果ての大災害がたびたび起こったりするので(リーマン・ショックとか)、やけにリアルだった。しかも人工恐竜が脱走した原因は、職員が不用意にケージの中に入ったから。第一作目の「ジュラシックパーク」が他企業に買収された職員の裏切りにより破滅したことを思うと対比が面白い。当時はこのように悪意なき大災厄となるシチュエーションを考えられなかった……と言い切るのは勇み足だろうか。
 また、恐竜を手懐ける・調教することを当然と受け取れるようになったのは僕が大人になったからか、時代が変わったためか。「ジュラシックパーク」の頃は恐竜をペットにする=リアルでないと思い込んでいた。逆にだからジュラシックパークの崩壊をそんなものと受け止められたのだ。恐竜はライオンなどとは異なるので人間と共存できない。頭のどこかで恐竜は別種の生き物だと思い込んでいたのだろう。それが22年経って、恐竜は恒温動物だったとか羽毛が生えていたとか想像できる生き物に変わった。ならば知能が高ければ飼い慣らせるよね。もちろんそこはリアル寄りの映画なので恐竜たちはほどほどにしか擬人化されていない。まだまだ野生が残っている状態だが、ジュラシックパークから22年(実際には数年だと思われる)であのレベルで懐くなら主人公は動物調教の天才かもね。むしろ主人公などの恐竜に対する思い入れが面白かった。

 今作では原点の「ジュラシックパーク」への立ち帰りがあったのか、前作などと比べてジュラシックパークらしさが出ていた。例えばここで文句を言った恐竜との触れ合い。最期を看取ることになるアパトサウルスや子供たち2人のお目付け役を散々弄んだ挙句喰われるプテラノドン(これは触れ合いじゃないか)、上に書いたように手懐けられた恐竜ヴェロキラプトル、そして最後をかっさらうT-REX。やっぱりテーマパークならば恐竜をキャラクター化して視聴者に見せないと。
 そして主人公の一角が子供たちに戻ったのも嬉しい。前二作は大人がメインで動いてしまい普通のアクション映画になっていた。別に普通のアクション映画が悪いわけではないけど、それだとエイリアンとかゾンビに襲われるってのと変わりないよね。ジュラシックパークはやっぱり子供が事件に巻き込まれ、いかにして生き残るかというハラハラ感が醍醐味なので、その意味で今作は十分に堪能できました。

 人工恐竜の恐怖を伝える描写が特に優秀。警備隊の近くに滴り落ちる血。不思議そうにそれを見る隊員たち。次の瞬間徐々に背景から浮き出る恐竜の姿……。そういえば「ジュラシックパーク」でもT-REXが現れるまではかなり長いタメがあった。雷のような地響きをたて、コップの水が揺れ、暗視ゴーグル越しの不明瞭な映像であるべきものがないと知る。何かが起きることに期待を抱かせるのだ。
 他のシーンではラプトルと対峙し、配下に置いてしまう描写も恐ろしい。ついに今作でもラプトルが人を襲うのか! と待っていた人は多いだろう。ラプトルに襲われる人々の描写を間接的に描くのは効果的だった。スプラッタでも直截的に描写されたら気持ち悪さはあっても恐怖が薄れる場合があるため、ネチネチと「そのもの」のシーンなしに演出し恐怖を持続させる手腕は感心した。

 百聞は一見にしかず、この興奮はぜひとも映画を見て欲しい。この手のパニック映画は登場人物の頭をわざと平均より悪くして事態の悪化を主導させ、視聴者が冷めることが多いが、「ジュラシック・ワールド」ではせっかく今まで投資したのに人工恐竜を殺すなんてもったいないと手をこまねいている。「そういう葛藤、私も経験したことある」と多くの人が自分の人生に即して背筋を凍らせながら観ることができる。そんな映画だ。
 いやもう人間サイドがどいつもこいつも小者で親近感がわくのだ(そして映画的には事態が楽しく悪化する)。
 ところで、脱出できた研究者のおっさんは、当然続編を作るために生き残らせたんだよね?

 なお、文中の恐竜名はウィキペディアをコピーした。
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