Tellurは、……現在色々物色中です。

「エクス・マキナ」(アレックス・ガーランド監督、ユニバーサル映画、2015)

2016年6月25日  2017年2月24日 
 「奇子」(手塚治虫)を思い出した人もいるかもしれない。外の世界を見たことのない無垢な存在が、その無垢さで破局をもたらす構図はまさしく「奇子」である。
 登場人物は4人。言葉を交わすシーンはほぼ常に2人同士でしか話さない。舞台も別荘というか実験施設というか、背景の変わらない無機質な空間。それなのに、極めて緊張感がある、物語の結末を早く見たいと思える作品に仕上がっているのは驚くべきことだろう。
 近未来的な印象を与える別荘の中で行われた人工知能に意識があるかを確かめる実験。人工知能は恋愛を擬態し、人間を欺き逃げ出す、というのがこの作品のあらすじである。先にも書いたとおり、登場人物も舞台もあらすじも至ってシンプルながらここまでのボリュームがあるのには驚きである。

 この作品のキモは表向きのテーマをAI(人工知能)の発達としたところにある。ラストシーンを見ればわかるが、本当のテーマは明らかに異なる。最初に挙げた「無垢な存在が利己的に振る舞う(この場合は恋愛を擬態する)ことで俗物どもを陥れること」とでもしようか。別に人工知能とする必要もなく、古代から定番のファム・ファタールを髣髴とさせる内容である。恐らく、このテーマをストレートに人間を使って描くと、それこそ「奇子」のようにグロテスクな作品になってしまうのだろう。人工知能という覆いをかけることによって、グロテスクさが薄められ、さらに中盤までの人工知能による自我の有無という視聴者の興味のフックが得られる。極めてよく練られている。

 冷静に考えて、普通の人間とまともに会話できる人工知能なら、嘘をつくということも考慮に入れられるべきだ。嘘とまで言わなくとも、人間の持つ認知の歪みが今作の実験に何かしらの影響を与えている可能性があるはずだ(そもそも同じ人間を対象にした心理関係のアンケートでも被験者の数を増やしバイアスを防ぐ努力をしているのだから)。実験者と人工知能とで行われる会話の内容自体も人工知能の自我を問う質問として不適当な気がする。そもそも人間とそれなりに会話が成立する今最先端のAI女子高生「りんな」やbotのように意味不明な罵声を浴びせる生身の人間を見てみると、会話だけで自我が計れるなどということがあるのだろうか。さらに女性形ロボットに恋心を抱かせることで男性(主人公)を欺かせて、それで何がわかるのだろう。
 そんなことを考えてみると、主人公たち人間サイドは人工知能からテストを仕掛けられたようにも思える。人間とはどのように振る舞う生き物なのか、的な。

 人工知能を開発したIT企業家はよくよく考えると変な行動を取っている。自分の会社の社員とはいえ、1人だけ酒に酔いつぶれて寝るなどあまりにも無防備すぎる(結果、酒が原因で破局が起きたし)。あんなに酒を飲んで急性アルコール中毒になったらどうするつもりだったのだろう。未知のテクノロジー満載の空間で意図せざる停電が発生して不審に思わなかったのだろうか(主人公も人工知能が生みの親を欺いて停電を引き起こしたと聞かされた時、ヤバイと思わなかったのかね)。
 ある意味で、人工知能以上に行動が変であり、だから途中から人間2人と人工知能1体の立場が逆転したようにも見えた。早い段階で視聴者に人工知能が人間なみの知性を備えていると確信させ、劇中の主人公たちが人工知能のテストをしているつもりなのに、それをメタ的に視聴者に眺めさせるのは上手い。人工知能の知性を計るという面倒な部分をすっ飛ばすことで物語はまるで恋の駆け引きに敗れた男2人というイメージをつくり上げる。その意味で、先に書いたように今作の本当のテーマは人工知能ではなく人間的知性同士の駆け引きなのだろう。

 人工知能の知性というキーワードだと、ニール・ブロムカンプ監督の「チャッピー」の方が人工知能らしい知性を描いていて好印象。もちろんあくまで男を欺く存在として描いた今作と、肉体をは精神・知性の仮の住処として描いた「チャッピー」とでは印象が異なるのも当たり前。今作は目を見張るような視点の広がりはないが、その分各人の経験にそって身近な苦い思い出をかきたててくれるかもしれない。
ー記事をシェアするー
B!
タグ