Tellurは、……現在色々物色中です。

「シン・ゴジラ」(庵野秀明監督、東宝、2016)

2016年8月15日  2017年2月24日 
 面白い。こういう映画が見たかった。ハリウッドで描かれる怪獣は、パシフィック・リムですら、現実の生物の延長と思われるため通常兵器が全く効かないなどのトンデモ要素(しかしそれこそが怪獣映画の醍醐味である)がなくなる傾向にある。一応2014年のギャレスゴジラは通常兵器が効かなかったかな。もちろんハリウッドの怪獣映画はそれはそれで面白いのだが、このような伝統的な怪獣映画はやはり日本産がイメージに合っていることを印象つけられた。そしてそのような怪獣をいかにして倒すかの攻防戦はさすがにエヴァンゲリオンの庵野監督だけあって非常に面白い。

ディザスター・ムービーとプロジェクトX

 さて、この映画は2011年の東日本大震災での被害や政府の対応を参照しており、その意味であの出来事をエンターテイメントに昇華出来てよかったねと思っている。恐らくその最たる例が被害者となる個人をほとんど描かなかったことであろう。一般市民を描くと、基本的には右往左往したり避難する姿しか描けず、その結果安易にお涙頂戴なシロモノになってしまう。この映画では組織の上層部ばかりが出てくるが、多くの震災報道・震災小説では被害者に代表される個人しか描いてなかったので、そのアンチテーゼとも理解できる。
 ただし、怪獣モノってのはその巨体から個人と対比して描かなくちゃ面白くならないから、怪獣映画として面白いかどうかは別物だ。怪獣退治や対策を主軸とした作品といえば「MM9」(山本弘)が挙げられるが、「MM9」は身近に出現する色々なバリエーションのある怪獣を出したから一般市民への被害もある程度は想像できるけど、今作のゴジラ(というか近年のゴジラ作品に見られることだが)は被害者(正確には人間との対比による恐怖)を感じることは難しいだろう。良くも悪くもあの傑作である平成ガメラ3部作と同程度なわけで、平成ガメラから何年経過したのかと考えれば実質的には全く成長していない。正直、ゴジラでなくて別の怪獣でも、極論すれば異星人の宇宙戦艦でも内容に影響はなかったと考えている。
 そこをあえてゴジラにしたってのはゴジラに対する愛なのだろうとは思うが、登場人物はゴジラを知らなくても、観客はゴジラが人間を滅ぼすなんぞできないことを知っているので、危機感に上限を設ける結果になったと思う(いくら放射能火炎をやビームを放って東京を火の海にしたとしても、同じ庵野監督だったら、「巨神兵東京に現わる」の方が怖かったし、他には平成ガメラのレギオンなどの切迫感には遠く及ばなかった)

現実VS虚構

 つまり、ゴジラがアポカリプスの象徴(そして悲しいかな本物のアポカリプスには規模も程度も遠く及ばない)と位置付けられ、今作のような作品になったのはある意味で悲劇であるのだ。変に伝統やテーマ付けをされてしまったせいで、その本質はエンターテイメント性であったにも関わらず、シリアスな現実を描くことを求められて、そして現実は虚構なんかが想像できないほど規模が大きく深みがあり複雑で、それでも優しいことを見せつけられてしまった。
 僕はこの「シン・ゴジラ」は数多の震災後文学の1バリエーションでしかないと考えている。危機(9.11テロでもオウム事件でも東日本大震災でも阪神大震災でも戦争でも良い)が起こった後で、被災者や救助隊や為政者を描いた作品というのが様々現れた。そのほとんどは悲しいかな全体像を見せるため、または個人をクローズアップさせるために一見して必要でないと判断されたところはあっさりと切られていた。「シン・ゴジラ」も良く出来た政治映画であるが、現実を描いているわけでなく、現実を戯画化して初めて映画として形になっているわけで、普通の虚構であると言わざるを得なかった。同じ虚構であっても、平成ガメラの怪獣プロレスをやりながらSFもテーマも盛り込めるフットワークの軽さは怪獣映画の歩むべき未来の1つとして大切だろう。願わくばガメラがまた復活してくれないかな。

リベンジされる第二次世界大戦
 この映画で面白かったのは第二次世界大戦と符合する箇所が出てきたことだ。その象徴である原子爆弾を落とされたのは1945年。シン・ゴジラと同じくアメリカによってだ。
 しかしシン・ゴジラでは見事にもこの危機を回避した。
 中露が主張しアメリカも同意する中、国連によりゴジラ(in Tokyo)への核攻撃が決定される。ACR包囲網のさなか、日本は何とかフランスを説得し時間を稼ぐ。そして対ゴジラ作戦も過酷だ。ゴジラに対してホース車とタンクローリーで対峙する。そして何と民間志願者までも募って特攻部隊を結成したのだ。ヤシオリ作戦と言えば聞こえは良いが、実際は極めて不安感あふれる絵面だった。ゴジラが立ち上がったら一瞬で作戦が崩れるよね? 同じ対ゴジラ戦でも超兵器を作れた1984版ゴジラに対して、シン・ゴジラはまるで竹槍で戦闘機に立ち向かう様。おお、ガンバスターよ、何十年かの時を経て蘇ったか。
 ある意味で、日本が再び世界の敵となり、原爆を落とされるシチュエーションを作るため、ゴジラという存在が使われたとも言えよう。確かにアメリカだったら怪獣が自国に現れても核兵器を使う予感はするが(パシフィック・リムやギャレスゴジラでそういうシーン、言及はされていた)、それを逆手にとって日本に非を持たせず日本人にとっての危機感を想起させる――つまりアメリカによる核攻撃だ――作りは上手いと思った。

かつて存在したと言われる美しいニッポン

 そしてそこで描かれる日本は前半の半分ギャグを交えた停滞した会議や官僚制の描写から、後半の国の存続のため自律的に行動する官僚・企業によって「希望」として描かれる。「日本もまだやれる」「危機というのは日本をも成長させる」……正確な表現は覚えてないが、登場人物にこのような発言をさせ、それこそ死を覚悟して自分の責務を果たす姿は格好良く映るものの、これが虚構なんだなと実感させられる。それも悪い意味での虚構だ。
 対ゴジラの作戦が軌道に乗ったのは結局トップが変わり権力を手に入れたからだ。つまり、何かを成し遂げようとすれば、今の日本ではクーデターしか選択肢がなくなってしまう。主人公である矢口の描かれ方もなかなか深読みしがいがある。序盤の巨大生物を信じず、また対策をさっさと実行に移さない官邸に苛立つシーン。僕も1回目観た時は矢口の立場だったが、2回目以降時は総理の立場になった。はっきり言って矢口は異常である。明らかにありえない選択ばかり信じ、その結果、この作品がゴジラだったから正しかったものの、ゴジラがいない世界では絶対にクラーケンやネッシーを信じるトンデモ官僚になっていたと思う。ある意味で、人間同士の小さいようだが今の社会を成立させるために必要な対立はゴジラという外敵によってあっさりと無効化され、そして総理大臣以下ほとんどが消えたことで矢口がやりたい放題できたという棚ボタ的展開。これを虚構と呼ばず何と呼ぶのだろう。そう、日本人、いや人類は外敵が現れて初めて団結できるのだ。核兵器を放つアメリカという敵によって。


ゴジラは続くよ、どこまでも

・それはともかく、ゴジラ、CGがしょぼくないか? 特に蒲田を進むアレ、どこからどう見ても作りものっぽかった。さすがにゴジラそのものはかなりリアルだったが、それでも血液が流れる時のCG的液体表現は「我こそはCGだ」と言わんばかりで、きつかった。
・文句は言ったが、面白いんだよな―。映画館に来ていたガキンチョも楽しんで見られていたようで、優れた作品は世代性別(恐らく国籍さえも)問わずに面白く感じるのだと思う。
・もっとも、あくまで「日本人向け」であり、日本人に興味がないと面白く感じないだろうってのはある。東京に核を打ち込まれると困るというのは日本の事情を知らないと理解できないんじゃないかな。
・ヤシオリ作戦の立案時はほぼ物語も佳境に入り、消化試合状態だったので、ヤシオリ作戦が最後の最後で失敗して緊張感を持続させたほうが良かった気がする……単に個人的な好みの問題だが。
 ところでやはり怪獣映画は怪獣の活躍と破壊を見せなければならないと思った。
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