2017年11月20日月曜日

「GODZILLA怪獣惑星」(静野孔文監督・瀬下寛之監督、ポリゴン・ピクチュアズ、2017年)

 3部作の1作目なんだね。パンフレットを読むまで全然知らなかった。だからラストシーンがあんなのだったのか。

 今作のゴジラは「シン・ゴジラ」とは方向性を変えて非リアルな方向性にしたとパンフレットに書いてあった。その目論見は大成功だろう。ツイッターで流れた感想に、「シン・ゴジラ」の方が云々というものがあったが、まさにこのような感想こそ製作者は待っていたと思う。
 そもそもゴジラシリーズは好きな作品が人によって異なれど、極めて空想特撮的であり、大人から大人気のVSビオランテですらスーパーX2が出てきて抗核バクテリアだのサンダーコントロールシステムだのワクワクするようなガジェット満載の作品なのだ。むしろ「シン・ゴジラ」が必要以上にリアルな、リアリティがあるという評判になったのは今後のゴジラ作品にとって不幸だろうと思う(既に言われてるかもしれないけど、人間サイドがあんなにリアルなのに戦車の一斉砲撃で倒されないってどういうこと? ってなるよなあ。特に今回の「GODZILLA怪獣惑星」で物理攻撃が効かない理屈が説明されていただけに。)。

 とは言え、今作で出てきた宇宙人だが、エクシフ星人(?)共はともかく、ビルサルド星人(?)はもう少し異星人っぽくして欲しかった。パンフレット見るまで黒人だと思ってたよ。っていうか、今作は黒人って出てきてるのか?
 実のところ、個人的には異星人が異星人っぽくたって別に問題はないと思っている。「スター・ウォーズ」は色んな人型異星人が出て来るが、だからといってシリアスさは損なわれていないし、むしろ仮面を被った悪役というギャグのような設定も普通に描けているではないか。キグルミショーでなくとも、「ガーディアン・オブ・ザ・ギャラクシー」とかアメコミ映画とか、非現生人類がそれなりのリアリティで動いているので、もう少し冒険してても良かったと思う(むしろリアルさを求めるならフジツボ型生命体みたいなコテコテの異星人にした方が良かったと思う)。


 さて、映画の内容だが、この作品から学んだのは怒りを感じたときこそ頭を冷やす重要さ、損切りを決断するのは大切ってことである。
 実は僕は、主人公が終始私怨で戦ってるように見えて終始感情移入出来なかった。実際問題、予期せぬ野生怪物が現れ被害を出した時点で撤退すべきなのに、そのまま作戦続行なんて勝利を放棄してるとしか思えない。ゴジラの恐怖を実体験した世代も少なそうだし、若い人らが焦って既存の秩序を変えようとして失敗した感がある。地球に降りるときから人員、装備が足りないだの何だの言ってたからなあ。
 とは言えわざとなんだろうな、と思う。主人公の行動に観客がツッコミを入れること前提というか。主人公の突飛な考えに対しろくな反論もなく、なし崩しに承認され、必要以上に頼りにされているわけで、観客としては主人公の考えを冷静な視点から眺める構図になっておる。


 という訳で、3部作の1作目だからか、設定も物語的にも物足りない点は多い。それでも「シン・ゴジラ」の呪縛を断とうとし、またアニメらしくゴジラ伝統の空想SFモノに回帰したのは良いことだと思うのだ。
 そうそう、今回のゴジラ、ゴジラに攻撃が通じないのも不思議な能力を持ってるのも、長い時を生きてる(?)のも、巨大化するのも「ゴジラだから仕方ない」と納得できたので、ゴジラである意味が十分にあったと思いますです。

2017年11月17日金曜日

「グウェンプール:こっちの世界にオジャマしま~す」(クリス・ヘイスティング、ヴィレッジブックス、2017)

 海外コミックを買う中で、DCやマーベルもの(いわゆるスーパーヒーローもの)は避けていた。だって世界観がわからないんだもの。日本で言うとガンダム世界みたいなものだと思う。詳しくない人からすると、同じような主人公が何体もいて、敵も同じような連中で、世界設定も同じようなもので、基礎知識が欲しいけど何読めばわからないってこと。
 さらに海外コミック特有の設定を省きがち(ここは日本のマンガがくどすぎるのだ)なのが世界観の把握できなさを加速させる。
 そのため、スーパーヒーロー系なら細かい設定を知らなくても雰囲気だけで理解できそうな「ザ・ボーイズ」のような捻った作品しか買わないのだ(「ザ・ボーイズ」はまだ完結してないので感想を書かないが、海外コミックは途中で邦訳打ち切りの可能性があるから、そろそろ感想文を書くべきだろうか)。そして「ザ・ボーイズ」後はそこまでスーパーヒーロー物を買わないだろう。

 と、思っていたが、いきなりコレだ。「グウェンプール」。表紙を見て、スーパーヒーロー関係ってことがわかったけど、あまりにも日本マンガ的なタッチで、アメリカ人のオタクがついにマーベルかDCで描き始めたのかと思ったのだ。それもデッドプールのパロディを。名前などからしてどう見てもデッドプールだったので、お布施してやるべと思って注文してびっくり。表紙詐欺かと思ったら中身も(一部分は)可愛い絵柄である(なお、海外の、特にアメリカのマンガは絵を描く人とストーリーを考える人が分かれてて、絵を描く人は数人で1チームみたいな構成をするので可愛い絵柄は全体の1/4くらい)。そして明るい! 「ザ・ボーイズ」とは大違いだ!
 そう、この作品で驚いたのはキャラクターの可愛らしさ。表紙の人以外が描いた回も色んなキャラクターに愛嬌がある。「ザ・ボーイズ」は可愛いキャラは弱いものを抱えているヒューイとフレンチーだけだったので、このきらびやかな世界に一気に引き込まれたのだった。

 とは言え中身はやはりスーパーヒーローもの。どうやらアメコミオタクの少女がアメコミ=スーパーヒーロー世界に行ったという設定らしい。そのためアメコミのネタを喋ったりするが、さっぱりわからん。わからなくとも絵を愛でてストーリーを読み進めるのに問題はないが、何となく寂しい。こんなことならちゃんとスーパーヒーローマンガも読んでおけば良かったかと思うんだけど、僕が本作を買おうと思ったのは「普通」のDCやマーベルでなさだったからなあ。「普通」の作品を買っても楽しめはしないだろう。
 また、海外コミックに必須の解説。相変わらず今月の新刊チラシみたいな形で本の間に挟まってるが、これ絶対に3年したらなくしそうだから、ちゃんと本文に綴じてほしいよなあ。それはともかく、解説を読んでやっとグウェンプールの立ち位置がわかった。いや、読んでもあまりわからん。取り敢えず、単発のキャラがパロディ遊びしてたらいつの間にかスピンオフになってたのか。スーパーヒーローものってどれもスピンオフのような気がするので、滅多にないことと知りつつもどのくらい凄いのかはわからない。とりあえず表紙のグリヒル氏が日本人ってことに納得。だから日本人好みの可愛らしさなのか。

 というわけで日本の萌え絵が表紙になったスーパーヒーローマンガ、アメリカでもこういう絵柄が徐々に受け入れられているのかと学ぶためにも買ったほうが良いと思う。

 次はリスガールだ!(また表紙買いかよ!)

「タイム・シップ」(スティーヴン・バクスター著、中原尚哉訳、ハヤカワSF文庫、2015)

 SFというジャンルを読む愉しみは、世界が変わる感覚を得られることである。自分が見ている世界は少しベールをめくれば異なる姿を持ち、それに応じて世界に対する自分の見方も変容する。しかしそれだけでは物足りない。世界の真理が知りたいだけなら最先端の物理学の本でも読んでいれば良い。SFの真価は、その変容に対峙する人間の感情や行動を描き出すことにある。変わってしまった人間は今後何を考え、どうするのか。SFがノンフィクションやジャーナリズムなどと異なるのは人間性への言及にあると考える。
 そんなSFの面白さを知った人間はひたすら世界が変わる感覚を求め続ける。もう身の回りの出来事に一喜一憂する物語には戻れない(とか言いつつ、そういうジャンルも普通に楽しんでるけど)。

 本作はH・G・ウェルズの「タイムマシン」の続編だが、単なる懐古趣味やパロディで満足せず、SFの最先端を描き出そうとしている。
 ネタはエヴェレットの多世界解釈。SFとしては2010年台後半にもなると流石に手垢が付きすぎているが、スティーブン・バクスターはそれを用いて独自の世界へ誘う。

 修正したい出来事があるなら、何でそれだけをピンポイントで回避しようとするのか。エヴェレットの多世界が確立しているなら、なぜ歴史の改変は禁忌とされるのか。人間が動物的な性質で災いを引き起こすなら、なぜ最初から人間を正しく作り変えないのか。

 多くのタイムトラベルものは本作のような人間性までを主題にしていないためか、タイムトラベルを泥棒を捕らえて縄を編む的な使い方しかしない。結果として、大掛かりなネタを使っているのに身の回りのこじんまりとした問題を解決することにしか使わないのだ。
 では、もしH・G・ウェルズが時間改変という概念を持っていれば、果たしてどのような物語を紡いだだろう。単に目の前の不幸を対処するだけだろうか。未来の世界で階級社会の行く末を描いたウェルズはやはり人間の変容を描くのではないか。

 スティーブン・バクスターが選んだ道は、徹底さであった。エヴェレットの多世界論によって時間旅行をするたびに変わる歴史と時間軸の中で、主人公と相棒は流浪者となってしまう。もはやタイムトラベルは彼らの手から離れ、傍観者を余儀なくされる。19世紀の人間である主人公はすでに歴史の改変や新人類の世界観にはついて行けず、文句と癇癪だらけになっているが、それでも「究極の改変」を見届ける。
 そもそも人間でしかない主人公は新モーロック族であるネボジプフェル、機械生命体の「建設者」の倫理を理解できないのだ。彼らが行う「究極の改変」は人間から見ると冒涜的で、主人公は蚊帳の外に置かれている。そんな主人公が人類の子孫たちと1つだけ共通する性質を持っており、それが主人公を旅に駆り立てる原動力でもある。
 個人的には僕をSFに誘うきっかけとなったグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」をイメージさせ、そしてだから僕は「ディアスポラ」が好きなんだなと改めて思った。人間が人間でなくなっても人間の何かを受け継いだ存在がいれば、それは人間に変わりはない。

 というわけで、王道のSF作品である「タイム・シップ」。冷静に考えれば、劇中後半までは19世紀のテクノロジーで説明されているのでスチームパンクとも言えるかも? 単に究極のSFが読みたい人も、スチームパンクが好きな粋なお方も、人外が主人公で意味不明な技術が好きな面倒くさい連中も、みんな楽しめるぞ!

2017年11月1日水曜日

「ブレードランナー 2049」(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、コロンビア、 2017年)

 初めに書いておくと、僕は初代「ブレードランナー」をリアルタイムで見たわけでも当時の空気を知っているわけでもなく、「ブレードランナー」自体に思い入れは全くない。そのためネットで皆さんが大興奮しても何がそこまで素晴らしいかいまいちピンと来てないのだ。

・テーマ性
 神殺しだのアイデンティティだの都市と孤独だのと言ったテーマは読み取れるんだけど、初代「ブレードランナー」に影響を受けた作品群がオリジナルと呼ばれるようになった後の今の時代で本作品を見ても……と思った。個人的には、西洋の人はどうでも良いことで神に挑もうとすると感じるため、そろそろ神をあっさり超えて欲しいと願っています。
 アイデンティティの探究の描き方は下記の主人公のルーツを崩したように、嫌味ったらしくて素敵。

・オタクの夢
 主人公であるレプリカント捜査官にはAIの非実体的な彼女がいて、深い絆を作っている。それだけではなく、高飛車な女上司とも一定の緊張の元心を許し合っており、さらに敵の組織のヤンデレ女幹部、ダメ押しに怪しげなヤンキー売春婦なども彼に好意を寄せる。というか、終始アイデンティティに悩み任務に没頭する主人公をよそに彼女らの痴話喧嘩のような争いで物語は紡がれていくのだ。全員死んだり破壊されたりするけどな。
 また、アイデンティティといえば、主人公は単なるレプリカントと思いきや、実はレプリカントが産んだ子供本人ではないかという疑惑も生まれ、まさに絵に描いたような「主人公」。本人は悩んでいるんだけど視聴者はいよいよ物語も佳境に入ってきたと興奮する一方、あまりの恵まれっぷりに鼻白む面も。
 物語のクライマックスでそれらを全て実は偽装工作でしたと宣言し、主人公の戦う動機も生きる目的も粉砕したのは素晴らしかった。そうそう、特別な生まれだから主人公っていうのは王道ではあるのだが、今時のリアリティではないのだよ。では自らのアイデンティティを破壊された主人公が敵と戦う動機は何かということになるんだけど、そこは単なるヒューマニズムでなく復讐とか具体的な中身を持たせてほしかったな。

・映像映えする未来はやってこない
 舞台は初代「ブレードランナー」でも見られた雨の降るビルの立ち並んだ都会(何となく台北とか昔の上海っぽい)、雪の田舎、トータル・リコールの火星ような廃墟の歓楽街である。特に雨の降る雑多な都会は色んなサブカルチャーに影響を与え、「サイレント・メビウス」とかも確か影響を受けてるんだっけ? それだけにあの小汚い都会こそがリアルな未来と思われがちなのだが、実際に外を見回してみるとまったく異なることに気付くだろう、少なくとも日本の東京の東京駅とかは。そう、未来は綺麗なのだ。「ブレードランナー」的ではなく、「素晴らしき世界」のようなユートピアな光景が我々の目指す方向であり、「ブレードランナー 2049」の雨が降り歩道と車道が区別されておらず看板が並び売春婦が路上を彷徨い労働者が夕食を立ち食いする都市はデフォルメが過ぎる気がする。今はもう少し綺麗で秩序だっていると思うよ。
 一方で赤い土の舞う廃墟の建物は幻想的ではあるんだが、あまりにも綺麗過ぎると思う。放射線が飛び交っているのかな。それとも乾燥しているのかな。腐ったり朽ちたりせず全てが赤く染まるだけ(そういや窓ガラスも壊れてないんだっけ)なのは見ていて違和感があった。


 初代の「ブレードランナー」とは異なり、作中でかなり説明が行われている。それだけに神秘性が消えていると思う。もちろん僕は初代の神秘性もあまり実感できないんだけど、本作はそれに輪をかけて普通の映画になったと思う。
 それでもアイデンティティの喪失と生きる意味を描いた映画としてよくできている。

2017年10月10日火曜日

「裏世界ピクニック」(宮澤伊織、ハヤカワ文庫JA)

 確かこの作品を読もうと思ったのは都市伝説についての小説という触れ込みだったからだっけ。
 「裏世界」という諸星大二郎氏が描く異界のような世界を主人公2人が各々の目的で探検するという内容で、そこではくねくねみたいな都市伝説の存在が実在しているという設定。読み進めると都市伝説のキャラクターたちは認知論をベースにした理屈で存在しており……まあ「奇奇奇譚編集部 ホラー作家はおばけが怖い」と読んだ感覚は似ている……怪奇ネタを題材にしたSFと言った感じ。ホラー作品だと甲田学人氏のMISSINGの方が(方向性が違うから当たり前だが)圧倒的に怖かった。

 続きが気になるし、続けようと思えばいくらでも続けられる設定だとは思う。ただ、原理がはっきりと書かれているため、後はひらすら都市伝説の存在を理屈をつけて解説するしか方向性はなさそうで、ダレるかもしれない。今の文庫の終わりも中々良い感じなので、本書の雰囲気が好きな僕としては続きを読まずにこのまま本を置いたほうが良さそうである。

「奇奇奇譚編集部 ホラー作家はおばけが怖い」(木犀あこ、角川ホラー文庫、2017)

 ホラーには馴染みがない僕だが、知り合いから紹介されて読んだ。
 ホラー小説の文脈がわからないので不安もあったが、中々面白かった。むしろSFに近い。巻末にこの作品が受賞した日本ホラー小説大賞の歴代作品が載っているが、パラサイト・イヴとか輩出したんだね。そりゃSFとも親和性があろう。

 内容的を大まかに書くと、人間の持つ恐怖心を脳科学でハッキングする系列で、似た雰囲気の作品としては「裏世界ピクニック」(宮澤伊織、ハヤカワ文庫JA)が挙げられる(そう言えば「裏世界ピクニック」は感想文書いてないな)。超自然的な存在が世の中には実在しており、主人公には知覚できるので、進化論だったり脳科学だったり記号論や言語論などを用いて超自然的な存在がもたらす事件を解決するという内容。理屈がはっきりしているので僕としては恐怖を感じなかった(怖がりだから良かった)。
 むしろ読んでて面白かったのは、ホラーとしてのアイデアの方で、嗅覚や味覚など、視覚(定番)・聴覚(ラップ音)・触覚(ひんやりとした~みたいな)以外の怪奇現象についてだとか、花や虫の幽霊(確かに動物霊や付喪神があるなら、草花も虫も魚もミトコンドリアも幽霊になって問題ない)の可能性や描写だとか。たぶんSFならこの方向性を進めて情報論とかそっちのテーマになってエスカレートすると思うんだけど(冷静に考えたらクラークの「幼年期の終わり」も生霊という形でホラーに含めそうだし)、この作品はどうなるのか楽しみ。

 キャラクターや会話は今風というかリーダビリティは高い。特に僕は怪奇小説の感度が低いため翻訳調でおどろおどろしく書かれると飽きる可能性があるので、この文体はありがたい。キャラクターの過去の掘り下げをフックにして物語にのめり込めるし、本書で出て来る怪異はストーリーに関連する部分はオーソドックスな幽霊の姿なので怖さが想像つきやすい(花や虫の幽霊は実験例的な意味合いで出てくるので読み飛ばしても可)。
 よく考えれば人が死なない作品なので、陰惨な作品が苦手な人も楽しめると思う。
 あと、生まれる前の胎児が幽霊になって出て来る話は、これこそ諸星大二郎氏にマンガ化してもらうと面白いと思う。


 とは言えホラーを求める人が本書に満足するかはわからない。日本ホラー小説大賞ってラインナップ的に正統派のホラーなのかすらわからないし。やっぱりSF読みの方が楽しめると思うのだ。

「ゴーレム100」(アルフレッド・ベスター著・渡辺佐智江訳、国書刊行会、2007)

 先に書いておくと、タイトルである「ゴーレム100」の「100」は百乗である。だから本来は「ゴーレム100」なんだけど、面倒だからこの記事では「ゴーレム100」と表記する。
さて、アルフレッド・ベスターの作品はタイポグラフィや言葉遊び、イラストが用いられる傾向がある。ある、と断言したが、実は僕は彼の作品は「ゴーレム100」しか読んだことがないのでその小説としての面白さまではわからない(「虎よ、虎よ!」は立ち読みでタイポグラフィだけ見て満足しちゃった)。
奇抜な表現は「ゴーレム100」でも多く使用されており、文体だけでもスラング混じりのガフ語に加え、蜜蜂レディは7人も8人もそれぞれ語尾やフォントいじりで個性を表現し、ラストはジョイス語で締めるというありさま。もちろん際立って目立つもの以外にも多分文体模写とかやってると思う。当たり前のようにイラストが出てき、最初に悪魔を召喚するシーンでは祈祷を表現するのに楽譜が用いられる(ちゃんと悪魔の返答も書かれるが、祈祷が完全に終わってからというのがミソ)。
実のところ、突飛な表現もじっくり読むと本文中に解説されており、見た目の異常さに反し意外とわかりやすい(いや、理解出来るのではなく、作者のやろうとしていることが想像できるという意味ね)。意味不明に思えるイラストも解説シーンがあって読者の負担にならないようにしているし(むしろあっさりと解説してしまって不思議さが薄れてしまっている)、イラストもシーンに合わせてテイストを変えている……はず。どれもこれも中途半端に抽象画入った作風なので自信はないが。

ストーリーは極めて単純で、連続殺人事件の犯人を追うのだが、追っているはずなのだが、何かどんどん脱線していくんだよな。犯人は超自然的な存在だと割りと始めの方でわかり、それから残された痕跡を辿って蜜蜂レディに潜入し、人間の精神を覚醒させるようなドラッグを打ったことでトリップしている内に大量に連続殺人が起き、人間の超自我が犯人だったとわかり、再びドラッグを打ち記録しようとしたところで主人公の1人が超自我に乗っ取られる、というか乗っ取られていたことがわかる。その超自我はアップデートされゴーレム101(101乗)になるのだが、あらすじ書いてもまったくネタバレにならないのはこの小説の利点である。むしろストーリーを知っていたほうが文体などを堪能できて楽しめるかもしれない。
地の文はガフ語頻出の会話文とは違い、大人しいが、ドラッグでトリップし始めたところから文章のテンポが上がってくる。お祭りの中で人が犯されて殺されるって内容なんだけど、パターン化された文言で何回も何回もほとんど同じ内容が書かれて読者も半ばトリップする。大量のモブキャラが現れてそれが大量に殺されるシーンなのだが、まるで本当にカーニバルのようにわちゃわちゃしていて面白い。

解説も裏話感があって面白い。なんと山形浩生氏による解説だ。初めて本書のあらすじを聞いた時はフロイト理論を使っているのか……とがっかりしたが、解説を読むと何でフロイトなのかがわかる。そして作者アルフレッド・ベスターが本書を書く前に長いブランクがあったことも。

こうやって感想文書いている今でも細部はわかっておらず、ついでに内容をどんどん忘れていってる。さらに自分の理解も表面的だと自覚しており、連続殺人犯を追うのは良いが突飛な展開が多く他人には勧め辛い小説でもある。1980年台に書かれたらしいが、まさに未来の文学なので、できれば多くの人が買ってくれることを願う。

どうやら、この本が出版された時、トークショーが行われたらしい。ああ、行きたかったなあ!

2017年10月6日金曜日

9月30日のホビージャパンゲーム会へ参加した

 遊んだゲームは、「宝石の煌き」(拡張版込)、「シークレット:米ソ諜報戦」。他2つほど軽いのを遊んだけど、合わなかったので割愛。
 「宝石の煌き」は相変わらず面白い。コンポーネントが豪華なのが一番良いところ。3回遊んでも、まだ戦略が見えてこない……。
 拡張版はゲームの性能を根本から変えるデザインとなっており、飽きさせないようにする工夫が感じられる。初心者が簡単に把握できるようなルールではないんだけど、しっかり遊びごたえがあって良いなあ。

 正体秘匿ゲームの「シークレット:米ソ諜報戦」。人狼をボードゲーム化し、会話から正体を推理するのをカードアクションを利用した対応で推理させるようにしている。ぶっちゃけ、カードアクションの内容は複雑だし、カードアクションの結果から正体を類推することもゲームに慣れてなければ難しいので、人狼に比べると初心者向けではない。とは言え、ゲーム中脱落者がいないのは本家である人狼に比べて中々の利点。
 内容は、2つのチームに分かれてチーム同士で勝利を目指し、さらに漁夫の利を狙う単プレイヤーがゲーム人数に応じて1人~2人ほど現れる。実は、自分がどのチーム/プレイヤーなのかはゲーム開始前にしかわからない。ゲーム中は自分の正体は隠されて進み、カードアクションに応じて他のプレイヤーなどとチーう/プレイヤーが交代したり、正体を公開したり、こっそり見たりする。自分の正体すらこのカードアクションを通じてしか見ることができないのだ。それで、勝利の方法はアクションをする度に受け取ったカードの合計点。各チームごとにそれぞれのプレイヤーが持っているカードの合計点を足し、一番点数の高かったチームが勝つ。ただし、漁夫の利を狙うプレイヤーは、自分の点数が他の全てのプレイヤーよりも低かったら、勝利となる。
 このゲームの肝は、メモを取らないことである。ゲームの展開の度に全員、もしくは過半数の正体を覚えていれば意外とゲーム的には簡単なのだ。自分のチームの他のプレイヤーに点数を押し付ければ良いだけだしね……。それじゃあつまらないので点数が一番低ければ勝つ単プレイヤーのシステムが導入されたと思うんだけど、ゲームデザイン的に合っていない気がする。

 今回遊んだ2回中、点数が一番低ければ勝つ単プレイヤーはどちらも勝利できなかった。
 単純に自分の正体がわからないというゲームシステムと、チームで点数を高めるという仕様が合っていないと思う。確率論で行けば、チームのどちらかに入る可能性が高いため、自分の正体がわからないのであれば自分の点数を高める方が有利である。多分、自分の正体がわからないので、チームのため自分の点数を上げることと単プレイヤー用に自分の点数を下げることのジレンマを表現したかったと思うんだけど、自分の点数を意図的に下げることができない上、正体が秘密裏に交換される(あるプレイヤーA以外が目をつぶり、Aの両隣のどちらかがAによって正体を交換される。A以外のプレイヤーからすると不確定要素多すぎじゃね?)ため推理が成り立たない。
 一緒に遊んだプレイヤーはカードアクションを通じて相手の正体を探ろうとしていたが、そんなの同じように思考する相手にしか通じない。先にも書いたように、会話ゲームである人狼に比べてカードの効果と結果が直感的に分かりづらいのでカードアクションから正体を類推するのは難しいと思うなあ(今まで書かなかったルールとして、カードを5枚受け取ったプレイヤーが現れたらゲーム終了するため、カードを全員に均等に渡す動機も生まれてしまうためだ)。結局はプレイヤーごとに3チームを丸暗記した方が早いという結論に達する。

 というわけで、惜しいゲーム。脱落者がいないのは非常に優れた点。会話を行わなくても良いのも優れた点。だけど、ゲームにするためカードアクションにしてしまったら、正体を推理する部分でわからなくなる。人狼系のゲームは他にも色々あるし、僕としてはあえてこれで遊ぶ意味はないと判断した。

2017年10月5日木曜日

「ずっとお城で暮らしてる」(シャーリィ・ジャクスン著、市田泉訳、創元推理文庫、2007年)

 田舎という閉じられた世界に対する恐怖と言うべきか。ネットの発達した現在の方がリアリティを感じると思われる。

 僕の親の本家は田舎にあり、親は都会に出てきた人間である。親の話を聞く限り、その昔、表沙汰にはならなかったものの本家の人は金(田畑とか漁業権とか山の権利みたいな意味ね)を騙し取られたとかあったらしい。それも近所など近しい人から。今は何とかその損失も消えたが、それでも僕の親世代の本家の人々は貧乏暮らしだったらしい。なので今でもお金はあまりなく、年金を元にした貯金と家(と二束三文の山)だけが相続できる財産で、本家の長男は姉妹と骨肉の争いをしているらしい。田舎では家なんて誰も貸してくれないので、家を継げないと生きていけないためだ。
 そういう話をちょくちょく聞かされていたため、言葉は悪いが「膿家」みたいな単語(念のため書くが、差別用語に当たる)を聞いた時、納得してしまう面もあった。なお、以下の田舎への悪口は、漠然とした「田舎」であり、さらに田舎の現状を知らない人間が伝聞で思い描いた二重三重のバイアスがかかったものであることは注記しておく。

 この本を読んだ時、僕は聞かされていた田舎が思い浮かび、僕の田舎に対する嫌悪感のイギリス版という印象を受けた。金持ちの一族を妬み、不幸があると喜び、村ぐるみで囃し立てる。ゴシップ好きで、出る杭を打ち、仲間の数が多いほど気が大きくなる。そういう共同体への嫌悪感が、この本でわずかな固有名詞と共に描かれる村(田舎)なのだろう。僕にとってこの本で気持ち悪かったのは有象無象の村人たちで、1人の女の子が自分たちのホームグラウンドにやって来た時は散々いじめるくせに、ヒステリーが高じて火事で暴徒になったり、その挙句自分たちが見殺しにして焼死者が出たと知るや一転して恐怖に震える落差は定番の展開と知りながらも気分良くはなかった。僕は暴徒とか多数派による手のひら返しとかそういう展開が嫌いなので、余計に虫の軍団のような村人たちが不気味に思える面はあるかもしれない。
 しかしこの本の主題は共同体への嫌悪「ではない」。ねちっこく描かれる村はあくまで主人公の少女とその姉を追い詰める道具に過ぎず、本書で描こうとしたのは敵だらけの世界でひっそりと生きる時間が止まったような姉と妹の耽美的な生活だと理解した。

 主人公である妹とその姉は異常である。妹は非常に幼く、読んでいる最中は10歳前後だと思ってたし(実際は18らしい)、姉は浮世離れしている。姉には一家を毒殺したと陰口叩かれ、妹は毒殺者の身内なので嫌がらせされる。その死の真実は途中から薄々読者も勘づくようになるが、でも動機については最後に至っても明言されない。妹は虚実入り混じった自分の妄想とおまじないの中で生き、人殺しと呼ばれる姉は自分の屋敷から出ず妹を甘やかすのみ。彼女たちと共に事件の生き残りである叔父が暮らしているが、その叔父も毒の影響で精神を病み、姉から世話を受けている。彼ら彼女らにとっては普通の幸せな生活なのだろうが、それも長くは続かないことは読んでいてわかってしまう。
 本書のターニングポイントは明らかに怪しい叔父の来訪。妄想入った妹を通じての描写なので本当に悪人なのかわからないが、でも客観的に考えても怪しい叔父。事件の生き残りの叔父も妄想混じりで警戒する中、姉はこの新参者を受け入れてしまう。その結果、この姉妹の生活は破綻する。彼は火事以降村人にあっさり溶け込んだように、俗世=村人の象徴である。金目当てを隠そうともせず、妹の妄想について行けないほどのまともな感性を持っている。読書中は妹に感情移入していたので憎たらしい印象を受けたが、改めて読むと単なる小者でしかない。妹にとって空気を読めない新しい叔父は姉を奪う存在であり、敵対視されるのも当然であったのだろう。

 一番いやらしく感じたのは作者である。最終的に火事が起こり、姉妹が村に戻る選択肢もあったのだろうが、村人の意地悪さや妹の被害妄想(?)から2人の世界を存続させてしまう。普通に考えて家が燃え、お金もなくなり、家具や服や食料がなくなったら生活力のない姉妹は生きることができない。そもそも姉は困難があろうと村に出ていこうとしていたのだ。それを姉妹で生きるシチュエーションを成り立たせるため、むしろ姉妹の絆を深めるために、火事で姉の希望の全てを破壊し、保存食は残っていた(!)ということにし、さらに村人たちが貢ぎ物を供えることで俗世に戻らせない展開。閉じた世界から逃さないという意思は悪意とすら思え、歪な美しさを壊す気はないのだなあと思った。

2017年9月19日火曜日

サディスティックサーカス2017Autumn

 行ってきたよ。ちなみにサディスティックサーカス2017Springはこちら

 出し物1つ目はMr.アパッチ。ジャグリングである。格好良くて最高。はしごの上に乗ったりお手玉やったりしてた。何とはしごの上で7つの玉でお手玉してたんだぞ、すごくない?
 2つ目はPAIN SOLUTIONの前半。前半だからショッキングではなかろうと思ってたら針刺しショーおっ始めやがった。J型の針を人体にぶっ刺して、たくさん刺したら紐につなげて空中に吊るし、ブランコみたいにブラブラさせる。さらに紐を1本ずつ切ってた。最終的に乳首の針1本で空中に吊り下がってたけど、乳首って強いんだね。陵辱エロゲのアレとかコレとか、実際には無理だろうと思ってたけど、意外とできるんだ。で、針刺しだったから幕間に血を拭いてた。まだ血はあまり出てなかったけど。
 3つ目はMiMi Le Noirっていうストリップ? 乳首と性器に銀塗ってた。おっぴろげたりしてた。プロポーションすげえ。
 4つ目のVeronica Waiteはポールダンスの人。ポールダンスってただ棒に体をこすりつけるだけと今まで思ってたけど、棒に登って逆さになったりだとか、完全に曲芸だ。もしやポールダンスはわざとセクシーな女性で人目を引かせて曲芸に注目させるのか。
 5つ目の浅草駒太夫。ストリップ60年選手らしい。音楽に合わせて踊るのは大衆演劇みたい。なかなか服を脱がないのだが、ストリップってそんなもの? まあ最終的には脱いだのだが上品。そして個別にお客さんに服をかけて1人ずつ性器を見せてた。これは笑いが起きた。
 次は金粉ショーのthe NOBEBO。金色の体にカラーライトが当たってきれいに輝いてた。この金色の体って前回のゴキブリコンビナートのツタンカーメンみたい……。金色の体がプルプルするのが見所という理解でOK?
 7つ目のDead Lift Lolotaはまるでアイドルみたいだった。レディビアードさん、ジャンプする時スカートを押さえないのが隣の人と対照的だった。男性はこういう所で男性だとわかるのね。いらん知識が増えた。Shade氏の曲がどれだったのかわからん。
 8つ目はノガラという軟体人間ショー。スーパー組体操みたいなものである。曲芸的な技は素晴らしい。軟らかな骨格だが、足の筋肉がムキムキなのを見逃さなかった。やはりこの手の体を使った演技をする人は筋肉質なんだ。
 その後はインターバル。フェティッシュバーの紹介。前回から気になってたけど、スタッフのお兄さんお姉さんの写真集って作ってくれないのだろうか。せっかくのお召し物、ちゃんと全員のを落ち着いて見たい。顔出しがアレなら仮面でも被って作ってほしいなあ。
 後半戦。
 最初から数えて9つ目のCAROUSELはMiMi Le NoirとVeronica Waiteがユニット組んで空中ブランコショー。宙に吊るした紐に体をぶら下げて組体操してた。きれいで格好良くて、すごい。曲芸は本当に見てて感動する。
 10番目はついにPAIN SOLUTIONの後半。まさか出血ものなのか、と思いきや、鼻に釘を差し込んだり、ガラスを食べたり、包丁の上に立ったり、針を体に刺したり、釘の上に立ったりしていた。何だ、これならあまり刺激的じゃないじゃない、と思っていたらやってくれました。最後に針を刺したり抜いたりした。出演者は3人で、それが全員で針芸するものだから迫力がとんでもない。体中に血が垂れてて床に落ちてたよ。この出し物が終わったら1人気絶と言うか貧血のお客さんが出たけど、さすがにスタッフも慣れっこみたいだった。PAIN SOLUTIONの人も心配そうに出てきて優しいなあ。演者が3人でよくまとまってたと思う。
 11番目のおベガス!。相変わらず元気になる。直前の流血ショーの口直しなのか? Pカップの方はよく見ると乳袋になってた。
 12番目は浅葱アゲハという空中パフォーマンスの人。ここらへんになると眠さが徐々に強くなる。ミヒャエル・エンデのモモをテーマにしたパフォーマンスらしいが、CAROUSELとやってることが被ってる。とは言え、ストリップしての空中パフォーマンスできれいだった。
 13番目はついにゴキブリコンビナート。「君の直腸が食べたい」というミュージカル(?)。えーと、「君の名は」と「君の膵臓を食べたい」が元ネタかな? 内容はどうでも良いが、最後に針金を口に貫通させてだんご3兄弟みたいになってた。君らも刺すのか。PAIN SOLUTIONとやってることは同じだが、痛みを素直に顔に出しているので余計に痛そう。ぶっちゃけ刺し芸としては素人っぽいが、痛みを感じず格好良さのあったPAIN SOLUTIONに比べてやたらに生々しい。
 14番目の早乙女宏美+琵琶デュオによる切腹ショーは琵琶を生で聞けて嬉しゅうございました。耳なし芳一がモチーフで切腹ショー。切るのが上手い。ちなみに今回は針刺しショーも切腹ショーも注意のアナウンスがなかった。
 そして最後に縄縛ショー。奈加あきら+紫月いろはのユニットらしい。正直、眠くて半分寝てた。ショーの大半は縛るシーンなので見てなくても特に問題なかった。やっぱ縛られる体に負担がかかるんだーと思った。

 という訳で相変わらずアングラショーである。今回は6時間ベンチに座っており、お尻が非常に痛かった。前回とは色々違うのが楽しめた。まあ、ネタがわかってても、目の前で曲芸するのはやはり迫力があって良い。次回も行きたいなあ。

「ダンケルク」(クリストファー・ノーラン監督、シンコピー・フィルムズ、2017)

 面白い映画である。最初は全く状況説明とかが行われず、お話がわからなかったが、仕掛けがわかった瞬間から一気に引き込まれた。
 この映画は撤退戦を抽象化して描いた作品なんだな。そのためドイツ軍は具体的に描かれず、戦闘シーンもほとんどない。そのため戦争映画と言われてもかなり異色作なのではなかろうか。

 実はこの映画の中で名前が出る人の方が少ないのだ。スタッフロールのキャストは「登場した順に書くよ!」と書かれており、それもフランス兵だとか列車に張り付いたおっさんとかそんな調子。町山智浩氏の解説(「町山智浩『ダンケルク』を語る」)を読むと、陸編の主人公がトミーっていう名前らしいが、映画見ている最中は知らなかった。トミーって呼ばれたり自己紹介するシーンってあったっけ? それほど名前の出てこない作りである。
 ちなみに最も存在感が強かったのはチャーチル首相で、この映画を見たら誰でもチャーチルファンになるのではないか。チャーチル首相そのものは画面に映っていなかったが、撤退の判断やその手段などで間接的に語られ、滅茶苦茶有能に描写された。まさか第二次大戦が終わって即首相の座から追われたとは誰も思うまい。
 そのように姿を現さないチャーチル首相が存在感があったほど、個人の名前は登場しない。そればかりか各固有名詞やイベントの抽象度は高い。最初に書いたようにドイツ軍の描写は全くされず、イギリス軍はテーマがテーマだけに戦闘シーンよりも撤退するシーンに重きを置かれて描写されている。フランス兵に至っては最初に銃撃戦、次に船でイギリスに逃れようと桟橋で待つシーンがほとんど。フランス兵の個人は陸編で出てきた1人しかいなかったのではなかろうか。

 実のところ、舞台がダンケルクの街である必然性もなく、この映画がガンダムの1シーンと言われても違和感はないと思う。登場人物は映画に必要な設定しか持っておらず、その意味で誰でも良い。ドラマのようなストーリーも背景もないけれど、逆に今スクリーンで起こっていることが全てであり、観客はその瞬間その瞬間を注視する必要がある(多分これがこの映画を語る際に使われていた「没入感」や「追体験」なのだろう)。ドラマを必要以上に作らなかったは、観客と登場人物に乖離を作らないためだったのではないかと思う。キャラクターが個性を持つと観客が客観的に見てしまうからね。でも不思議と、物語で語られるわずかなセリフから、キャラクターたちの背景が読み取れる(というか、過剰に読み取ってしまえる)。ある意味で二次創作遊びをしやすいのだ。
 特に船組のお爺さんは色々背景があることを暗に語っており、「個人」性はこの作品でも屈指。勝手に過去を考えてしまい、それにより感情移入はかなりできる。名前出てこなかった気がするけど(出てたらごめんなさい)。
 考えてみれば、単なる撤退する人だった陸組と、ドイツ航空機を迎撃するドラマを繰り広げたものの戦闘員以上の存在ではなかった空組に対して、海組のキャラクターは別作品と思えるくらいそれぞれのストーリーも感情も描かれていた。最初の2つが軍隊であり、一方でドラマらしいドラマのあった海組の登場人物が民間人であったわけで、戦場に自分の意思で参加する理由を描かなければ登場人物がペラペラになるし、そしてそれを描いたら必然的にドラマが生まれるわけだ。

 最初は群像劇だと思ったけど、群像劇というほどキャラクターの背景も出来事もない。メインの人物はいるけど誰も主人公と言うほどの活躍を見せない。いわゆるハリウッド脚本術的なストーリーが進む内に変化する主人公のような存在はこの映画には出てこないのだ。戦争は人間性を剥奪する的な表現があるけど、それを地で行った作品とでも言うべきか。
 何にせよ、商業作品でこんな作りにしてしまい、それでヒットを飛ばせる監督って勇気も実力もあるなあと思った。

「エイリアン: コヴェナント」(リドリー・スコット監督、20世紀フォックス、2017)

 エイリアン: コヴェナントを公開日当日の朝イチで見てきたが、見事なまでにおっさんと爺さんばっかりであった(僕もそんなおっさんの一人だが)。カップルや女性グループがいなかったことが、この映画の対象層を表していて納得した。そういやプロメテウスもおっさんと爺さん天国だった気がする。
 でエイリアン: コヴェナント、前作のプロメテウスの続きであり、エイリアン1の前日譚という位置づけなのだが、前作プロメテウスの設定の甘さが今作でも見られる。最もダメな設定なのは、エイリアン: コヴェナントでは事件が訪れるのは目的地に航海する途中で面白そうな惑星を見つけたから、というバカ理由で辛い。事前に何年も準備した計画を勝手に変えるなよ……。これでも良い年した惑星入植者のクルーなのである。
 そして未知の惑星をろくに探査せず人間の探検隊を送り出し、当然未知の病気に感染する(映画内ではこれがエイリアンの胞子みたいなもので、いつものエイリアンによる悲劇が訪れるのだ)。一方、探検隊を送り出した母艦は惑星の上空で待機しているが、母艦お留守番組の1人は探検隊にパートナーがいて、なかなか帰って来なく様子のわからない地上にヤキモキしている。夫婦を乗せるならもうちょっと感情コントロールをしとけよ。と言うか、主人公の夫が冒頭で死ぬのもそうなんだけど、物語の展開に色恋沙汰を使いすぎて、この連中が本当に他の惑星に入植できるとは思えない。こう言っちゃアレだが、B級ホラーで調子に乗って殺される大学生と知能や行動原理が変わらない。エイリアンはホラーだからキャラクターや物語もB級にしてしまったのだろうか。
 前作プロメテウスもそうなんだけど、プロット部分で引っかかりが多い。この感想の冒頭で書いた寄り道でエイリアンの惑星に行ってしまったという噴飯モノを始めとして、今回は展開のほとんどが自業自得感半端ない上に未知の凶暴な生物を見てながらそれでも単独行動する頭の悪さが状況を悪化させる。頭が悪いと言えば、未知の惑星に住んでた人間(?)を簡単に信用してしまうのもそう。当然エイリアンを植えられ、その後のエイリアン地獄の元凶となるわけだが、こんな怪しい人物をよく信用する気になったなと悪い意味で感心した。単にエイリアンに襲われるシチュエーションだけ作れれば良かったのだろうか。
 さて、そんな文句ばかりの今作で見どころがあったのは、エイリアン誕生に絡んだお話。作中の合成人間は人間に作り出されたから「創造」を行うことができず、創造を行いたいので人間に手をかけたというディスコミュニケーションを主題にしている。これ自体は僕は評価しておらず、エイリアンの創造って元は異星人の技術だよ、とか、彼が行ったのはせいぜい稲の品種改良だったりレゴブロックを組み替えるくらいで、稲やブロックそのものを作ったわけじゃないよ、と茶々を入れたい。しかし、人間が理解できる悪しき欲望でも、人間に敵対する異星人でもなく、それらとは無縁な別の意図でもってエイリアンが作られたという設定はなかなか面白かった。もちろん、現実的にはAIのコミュニケーション実験で人間が理解できない言葉を用いて会話し始めたみたいなニュースがあり、合成人間は創造できないという前提は意味をなさない。でも展開が負の方向へのご都合主義だったこの映画の中で、映画の設定としてこの映画独自のテーマ(「創造」的と言ってもよかろう)だった人間と意思疎通が出来るけど倫理が合わない合成人間の欲望という問題は観客に強い衝撃をもたらしたと思う。
 あとは、やっぱり「創造」に拘ってたのはキリスト教的な価値観が根底にあるからか? 創造主をもっと強くせねばカタルシスが得られないと思う。

 なお、この映画は町山智浩氏の解説がなくちゃわからん。
・「町山智浩 『エイリアン: コヴェナント』を語る
 なるほど、創造主への反逆だったのか。人間がスペースジョッキー(プロメテウスで語られた人間を作った宇宙人)に反逆するシーンがないので、個人的には映画の構造として美しくないと思う。合成人間が人間に反旗を翻すなら、人間がスペースジョッキーに反逆するテーマと対比させた方が良かったと思った。

2017年9月13日水曜日

ゲームが人生に繋がっていると感じた瞬間

 僕の親は貧乏性である。
 これは親が生まれ育った環境に起因する。ど田舎で育ち、多くは語らないけど10代の頃かなり困窮していたらしい。そのため今でもお金を大事にする。多少ストイック過ぎていて、今時(といっても僕ももう歳だが)の子供としては付いて行けない部分も多々ある。それでも親の生き方というのは尊敬している。
 そんなわけで、親は日々の生活でも極めてお金の支出を抑える。具体的には皮膚にあまり触れない生活必需品は近所の安売りスーパーの値引き時にメーカーを問わず大量に買い込む癖があるのだ。ゴミ袋とかフローリング掃除シート、ロウソクやDVDメディアなど、僕が把握していないものも含めて家には大量に物資がある。断捨離やらミニマリズムなどとは程遠い生活だ。

 僕自身も昔からこういうものだと思っており、自分の行動の一部だった。ただ、親と同様、見苦しくはならないようにしているつもりだ(親はモノを大量に買うくせに見栄えを気にするのだ)。
 それが成功したのか他人から指摘を受けることもなく、今ではこのリスのように貯めこむ習性を意識することもほとんどなかった。
 しかし転勤のため会社の机を整理していたら久々にびっくりしたのだ。

 事務用品が大量に出てくる出てくる。さすがに反省。自分でも把握できない分量はまずい。使ってないシャープペンの芯がある。使わない色のマーカーがある。恐らく将来も使わない。
 ここでふとオンラインゲームが連想された。ウルティマオンライン(UO)。
 オンラインゲームはオフラインゲームとは異なり基本的にリセット不可能である。原材料を消費して製品を作る場合、どんなに貴重な材料でも「作る」ボタンを押すと消費されてしまう。成功するか失敗するかは運のみ。そういえばオンラインゲームの最大の敵は乱数やリアルラックと言われてたっけ。

 だから成功率が低い製品を作るなら誰でもやることは1つだ。そう、原材料を出来る限り貯めるのだ。もちろんある程度貯めこむのは当たり前。ゲームは、特にオンラインゲームは、その寿命を長く保たせるためにプレイヤーのコレクション欲を掻き立てる設計をしている。必要な原材料以外もあれもこれも買い占めるなんてことはまあ普通に見られるだろう。悲しいかな僕はUOしか知らないが、UOでは例えば同じアイテムでも外見が異なっていたり、期間限定の配布イベントなどを行っている。漏れ聞こえてくる限りでは他のオンラインゲームも同じだと思う。
 さらに言うと、オンラインゲームでは究極的にはリアル時間の奉仕が成功につながりやすいので、廃プレイ自慢も加熱しがちである。「アイテムをたくさん集めました」。そのアイテムを集める苦労を知っている人々にとってはこれ以上ないほどの自慢となるだろう。

 とはいえ、単純に収集が楽しいのも貯めこむ理由の1つ。戦闘でレアアイテムを得る快感。ひたすら釣りや掘りを行って原材料(素材)を貯める楽しみ。世には銀行残高の増加を見るのが趣味という人もいるが、そんなのに近いのかなと想像している。いざとなれば素材も換金できるしね(人の少なくなりがちな今のUOでは素材の買い取り価格は安定しているのでかなり長期に渡って貯めても大丈夫、のはず……)。原材料集めは単純作業になりがちだが、逆にだから延々と出来るといった面もある。

 長々と書いたが、僕はUOにおいて延々と素材を貯めるスタイルを採っていた。将来的な装備の作成とか目的はあったはずなのだが、いつの間にか素材集めが目的となってしまった。半休止状態の今見てみると、驚くほど貯め込んでいる。
 ふとリアルの生活を思い浮かべる。リアルの生活はお給料という上限があるので貯め込めないが、でも好きな服とか着心地の良い下着とかはまだ新品で大量に持ってるぞ。
 リアル生活を反映する傾向が強いほど、ゲームでの生活もリアルと変わらなくなっていくと感じたのだった。これが単に敵を倒す・装備を作るだけのゲームだったらここまでリアルが反映されることもなかったろうに。結局、ゲームでロールプレイとか言うけど、意識しないと「リアルの自分」からは逃れられない。

「多重人格探偵サイコ」(原作:大塚英志・作画:田島昭宇、角川書店、2016、全24巻)

 この作品はなかなか感想を書くのが難しく、世間的には有害図書指定を受けた、と説明するのが一番簡単かな? 僕にとっては一時期大塚英志氏の評論が好きで、その創作論の具体例として読んでいた。
 とは言え、リアルタイムで単行本を買っていた時はストーリーがとっちらかっていると理解した記憶がある。当ブログでも記事にしており、ここで書いた文句の大半は全巻通して読んだ今現在も感想としては変わっていない。とは言え、本作品が完結して全巻読んでみた感想でも遅まきながら書いてみよう。

 まず自分でも驚いたのはむかし16巻くらいまで読んでたはずなのに途中から全く覚えていなかったこと。飛行機で船に突っ込むシーンってまだ物語半ばだったんだ。それこそ15、16巻くらいの記憶になっていた。こう言っては何だが、前半主人公ってキャラクターが立ちすぎていて、完全に後半主人公を食ってるんだよね。前半の主人公は多重人格という謎を持っており、読者が感情移入しやすい人格や冷酷な人格があって、その正体について読書の興味をかきたてる。後半の主人公は、前半主人公の性格を分解したような優しい担当とか冷酷担当みたいなペラペラのキャラであり、特に神秘さも感じせず、それがエピソードやページ数の割に印象が薄れる原因だったと思う。
 また、10巻くらいで既にガクソの陰謀(暗躍)と多重人格者のオンパレードの様式が完成されており、しかも限られた人物で物語を発展させてるので、誰も彼もが黒幕であるガクソ関係者で場合によっては人格のコピーされた人というワンパターンな作劇となっている(読んでて一番アレだったのは、「◯◯という人物が実は××だった!」というのは1回目は驚くんだけど、その後「でも××ですらなくて、実は△△だったのです!」とひっくり返される点。キャラクターに対するイメージが混乱するので止めて欲しかった。というか、最初からわかりやすい伏線を張って欲しかった。この作品の世界観として、ある人物の肉体的または精神的なスペアが自分でも知らずに別人として暮らしてるという設定があるんだけど、この設定のせいで「□□というキャラクターは**というキャラクターのスペアだった!」という展開が何回も出てきており、それもあって食傷気味である。このネタをほぼ全ての登場人物でやられたら、さすがに飽きるよ。)。原作者がどういう方法を用いて各エピソードを組み立てていたのかはわからないけど、どうしても大塚英志氏なのでタロットカードを用いているのではないかと思ってしまう。それほど個々の要素の組み合わせを変えまくったような似たような内容だった。

 全巻通して読んでて思ったのが、物語の世界観としてガクソ自体行き当たりばったりとしか思えないし、有力者のスペアが多すぎて作中世界の日本は政治家とかに後始末させた方が良いのでは? と思えてくる。以前書いた感想ではガクソに思想があるみたいなことを書いたのだが、ちゃんと読むとガクソも一枚岩ではないし、興味本位で手を広げたということが明確に書かれている。なので、読者からすると悪役とまでは認識できないし、それはラスボスですら何がやりたかったのかわからない読後感をもたらす。人間のスペアやら人格の再生やらにからめて、天皇の純粋化(?)やキリストの復活や太古の昔から延々と体を乗り移っていたラスボスやらが風呂敷を広げるが、結局は具体的な内容が書かれるわけではないし……。それよりもラスボスが太古の昔から人格コピーしてたんなら、わざわざガクソを隠れ蓑にせずにさっさと行動すれば良かったのではないか? と思った。
 あとは前半主人公の復活。普通のエンターテイメント作品なら感動的なシーンだが、大塚英志氏は以前にマンガにおける死ぬ体みたいなことを語っており、だから前半主人公を殺してそれがわかるように解剖シーンを入れた、とどこかで語っていた。僕がその発言を読んだのはもう10年近く前だと思うので、多重人格探偵サイコの連載終盤とは事情が異なるのかもしれないが、結局その作品論の失敗ということとなり、大塚英志氏の創作論として読んでいた僕にとっては何だかな~と思ってしまった。よくよく考えると、ひたすらスペアやら人格の復活やらが描かれる本作品で死んでしまう体なんて絵に描かれた餅にしかならないだろう。先に書いたように天皇やキリスト関連のような現実とのリンクが失敗していることからも考えると、大塚英志氏の創作論・作劇論の評価をかなり落とさざるを得ないと思う。

 とまあ一気読みした割には色々文句を言ってしまった。何だろうなあ。初期のバーコード殺人者を追い求めるエピソード集が一番良くできているので、単なる探偵ものにした方が良かったと思う。下手にガクソのような悪の組織や日本を巻き込む陰謀を考えだしたために、現実で陰謀や悪の組織のリアリティがなくなっていくのに作品にはマンガ的な悪役が存在するという半分ギャグみたいな作品になってしまったと思う。そして悪役ということで風呂敷を広げすぎて作中世界が何でもかんでもガクソに紐付いてしまい、それだけの技術を持ってながら何でガクソは目的を達成できてないの? という疑問を読者に抱かせた。以前の感想文では「陰謀論めいた話になってしまい現実に追い越されたチャチさ」と表現したが、今回最後まで読むとまさにチャチく終わったと思う。
 僕のように大塚英志論として読む人はどれくらいいるのかわからないけど、何かの参考になれば幸いです。

2017年8月20日日曜日

「とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢」(ジョイス・キャロル・オーツ、河出書房新社、2013)

 ある種の精神的な病、トラウマ、神経質な人物が事件を引き起こし、それが現代アメリカの問題を表している作品、とでも言うべきか。日本人の僕からすれば訳者解説での説明が必要だが、読めばなるほど、と思えた。とは言え、技巧は良いのだが、作品のテーマや内容に大して技巧がアンバランスに勝っており傑作とは言いがたかった。
 それが一番出ているのは、ストーリー部分。ストーリーはかなり類型的で、ホラーや奇妙な味系を読む人からすれば途中まで読むと落ちがわかる作品がちらほら見られる。人物構成も重なっている作品があることから、そのため読んでて飽きやすい。

 それが一番表れたのは「私の名を知る者はいない」。ラストで女の子が赤ちゃんを殺すのかなと思ってたら本当に殺してしまった。猫も女の子の悪いことをシンボルであり、読みやすかったが意外性はない。
 それに対し、面白かったのは「とうもろこしの乙女」。小説の構成的に、複数の視点がガンガン入れ替わり、そしてそれぞれの語り手は必要以上のことを地の文でも話さない。だから最初読むとわかりにくいんだけど、わざとらしい自己紹介などがないだけリアルさを感じた。しかし内容としては鍵っ子である小学生の女の子が、人とは違うという自意識をアンデンティティに持った別の女の子に監禁されて「儀式」を受けるということ。監禁した女の子は犯人扱いされないように学校の先生を陥れるんだけど、被害者の女の子の母親がテレビに出て騒がれてる優越感に浸り、わざわざ被害者の母親に接触して疑惑を掻き立てたりする。まあ、何だ、アメリカでの幼児に対する犯罪者の扱いやら、無実を叫んでも犯人と断定するマスメディアやら、小学生も汚染されるマリファナやら、幼い子を1人で留守番させた親へのバッシングやら、「アメリカ」的な問題点をたくさん盛り込んだ読み応えのある作品ではあるんだ。それだけに、事件のあらましとしては数十年前のキレる17歳のようなサカキバラ的な若者の闇を知ってる人からすればショッキングではない。日本も20年近く前に通った道である。読者としては、女の子が生きて帰れるのか否か、というところしか興味が持てなくなる。
 で、読者の興味を掻き立てるラストシーンだが、幸せな家族を描いたものの、それまでに挙げた問題点を解決することなく終わってしまっている。マスメディアの責任はどうなった? 虚偽を信じ込んだ警察は? 女の子が変な思想を抱くようになった経緯は? 驚くことに、そこら辺が一切解決されずに物語は終わってしまった。えー、嘘でしょ。

 つまり、あまり作り込んだ作品はもしかしたらこの作者は不得意なのかもしれない。そう感じたのが、「ベールシェバ」。この「ベールシェバ」というタイトルは相応の意味があるが、実はわからなくても作品を読む上では問題ない。極めて削ぎ落とされた内容で、男が捨てたかつての妻の子が、父である男に対し復讐するのだが、その子が言う糾弾は男の見に覚えがなくて……という作品。当初は男が悪いのか、と読者も思うんだけど、次第に女の子に不気味さを感じるようになり、実は女の子が事実でないことを信じているのでは? と思えてくる。ラストシーンも解説がなく、奇妙な味のような読後感。しつこい設定が解決されない「とうもろこしの乙女」に比べるとこれくらいの方が読みやすかった。ところで面白かったのは、男は当初自分の子に欲情したりするのだが、その女の子の体の描写が一昔前のお色気小説のようにしつこい点。これは一体何の効果を狙ってのことだろうか? (言っちゃあ悪いが、本文中でそこまで美人だとは書かれてもないし……)。

 「化石の兄弟」は個人的に好きな作品。設定の現実さに対し、描写は極めて幻想的。訳者解説で暴力性が云々と書かれているが、半分ファンタジーかかった雰囲気のため生々しさはまったくない。ストーリーは、略奪者である兄と収奪される側である弟の双子の兄弟が生まれてから死ぬまでの生き様を描いた、という内容。しかし徹底的に兄と弟との関係に絞って書かれているのがこの作品の特徴。「兄」と「弟」とは何かの比喩だと思うんだけど、わからん。
 一方、同じように双子の兄弟をテーマにした「タマゴテングタケ」はモチーフが「化石の兄弟」に似ているのと、一方で「化石の兄弟」の特徴だった雰囲気がなく、普通の小説っぽい。登場人物もたくさんいるし。それゆえ何らかの不安感を描きたいのだろうと思うんだけど、見どころがなくて微妙なのだ。

 不安感と言えば、「頭の穴」は微妙だった。いかにもアメリカ的な妻との関係が悪く雇っている看護師に心が動いている美容外科医の男。破産寸前でさらに流血や手術が苦手という仕事と自分とが合っていない。美容外科医とは手術というよりもカウンセラーという側面が強いと書かれ、顧客の不安を鎮めるため頭蓋穿孔手術を渋々決行し、そして破滅する。主人公の美容外科医も彼の顧客たちもそろって不安を感じているのが特徴で、いわば負の感情同士がぶつかりあってストーリーを進める。
 ……でも、僕はここまでの不安感は抱いてないので、かなりしらけながら読んでいた。一番困ったのは、前半の美容外科と後半の頭蓋穿孔手術を「精神的な希求」でつなげる点。確かに美容外科は精神面が大きいと僕もどこかで読んだことはあるが、一応外見に影響し成果が出る美容外科と100%怪しい手術である頭蓋穿孔を並べられても説得力が感じられなかった。どうやら筆者はそれなりに頭蓋穿孔のことを調べたらしいが、逆にそれが「精神的な希求」という患者のあやふやな欲求に対し変に具体的な発言としてチグハグな感じとなっている。
 そしてラストで描写されるスプラッターさは悪趣味というか、真面目に調べたであろう頭蓋穿孔の希求をメチャクチャにして、何がやりたかったんだろうと思ってしまう。

 一方、女性が抱える不安として「ヘルピング・ハンズ」。湾岸戦争や退役軍人をテーマにしており、これまたアメリカ的。不安とか寂しさとかを描いているが、この単行本では何回も出てくるテーマだから正直食傷気味。


 という訳で、僕とは合わなかった。全体的にどの作品も似ており、掲げたテーマの割に尻切れトンボ気味だと感じる。その癖技巧はあるので客観に引き戻されやすく作品に入り込めない。

2017年8月1日火曜日

「メアリと魔女の花」(スタジオポノック、2017)

 ポストジブリ作品……という評価で良いのだろうか。
 リアルタイムで、しかも映画館でジブリ作品を見るのは覚えている限りでは初めてなのだ。

 原作は読んでないのだが、偶然手に入れた魔法の力で魔法の国へ行った女の子が嘘をついてしまい、それが引っ込みつかなくなって……というストーリー。現実世界で何の取り柄もないお年頃の主人公というのは、この前見た「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」に通じるものがあるが、本作はちゃんと冒険が終わると現実世界に戻り成長するので安心して見ていられる。
 ところで気になったのだが近年のファンタジー作品は、魔法世界と非魔法世界を比べた時、魔法世界もユートピアじゃなくて現実に通じる問題を抱えているんですよ~、という流れがあると思う。あまりファンタジーは読まないが、昔なら例えばナルニア物語だったら、世界を支配する悪のようなファンタジー的な問題だった。一方で近年では、というかハリー・ポッターなんだけど、魔法世界での問題というのは明らかに人種差別のメタファーだったりして変な意味で夢がない。いや、夢というよりリアリティか。正直、魔法を使える世界で必要以上に人々が対立したらすぐに血みどろ殺戮劇になると思うので止めた方が良い(その点を考えきったのが貴志祐介氏による「新世界より」である)。「セントールの悩み」(村山慶)を好む僕が言うのも何だけど、結局は矮小さなんだよなあ。魔法世界の問題ならあくまで魔法世界の問題になって欲しいのだ。もちろん現実世界と通じるのは仕方ないんだけど、魔法という個人が持つものとしては(現実世界に比べて)強力な力が引き起こす問題が現実世界レベルの問題なのか、と疑問がある。
 そんなことを変な意味で人間らしいこの映画の悪役たちを見てふと思ったのだ。

 ラストバトルはかなり好きである。どうせ主人公が魔法の力を使うんだろーと思っていたが、途中から主人公に魔法を使わせないよう使わせないよう伏線を張っていく。そう、主人公が魔法使いだと嘘をついてしまったことで始まった騒動なのだから、主人公が魔法を使わずに収めねばならない。同時にそれは魔法魔法と魔法に頼り切りになる悪役サイドへのカウンターともなっており、とても素晴らしいシナリオだった。もちろん最終的な解決は魔法になるんだけど、その魔法の唱えるまでの流れが良いのだ。

 良い作品であった。

髑髏城の七人 シーズン鳥

 初めて髑髏城の七人を、劇団☆新感線を観た。この演劇は客席が360度回展するのが売りになっており、どういうことかわからなかったが、体験してみて納得。これは演劇として凄いことだ(と演劇を見ていないにも関わらず感じた)。
 普通、演劇って舞台が1つなので場所の転換があまりなかったり、セットを組み立てる時間がかかったりする。なので演劇は背景を使いまわしたり、場所を動かないものだという思い込みがあった。
 この劇場では客席を囲むように舞台が作られ、幕で客が見ることのできるセットを制御している。そのため客席を回転させればシームレスに場所を移動でき、さらに1つの背景・セットを全部見せるとか右半分しか見せないとかの操作も可能。ついでに幕に映像を投射することもできる。
 これにより巨大なセットを5つも6つも作ることができ、演劇特有の背景の使いまわし感・移動しなさ感が全くない(阿弖流為のDVDを見たら舞台の進化に驚いたよ)。ほとんど映画のような豪華さで、そして演劇の目玉である全体を眺める視点も損なってない(ただし演劇の欠点でもあるオペラグラスなしでは役者の顔や動作がよく見えないのは変わらない)。

 近年の演劇はここまでテクノロジーが進化しているのかと思った。
 内容? 作品も劇団も見るのが初めてなので偉そうなことは言えぬ。ひたすら格好良く、シナリオもシリアスとギャグがしっかりしていた。僕は演劇ファンではないので何度も見るよりも、他の作品を同じ設備で見てみたいなあ。

2017年7月27日木曜日

「夜の夢見の川」(シオドア・スタージョン/G・K・チェスタトン 他、中村融 編、創元社推理文庫、2017)

 この前感想文を書いた「街角の書店」の第二弾。今回も不思議なお話盛り沢山だよ。

 トップを飾るのはクリストファー・ファウラー「麻酔」。タイトルの段階では歯医者で麻酔を忘れられた/途中できれて阿鼻叫喚、と思いきや、麻酔はかかったんだけど、医者がマッドな素人で色んなところを手術され芸術作品にされてしまったという内容。グロテスクな作品のはずだが、終盤がぶっ飛んでおり、描写の割には嫌な感じが少ない。読者にダメージを与えるなら、いかにもなシチュエーションであり得そうな痛い描写をするはずだから、これは意図されたものかな。半分ギャグにもなっている「手術後」からすると、おそらくこの作品は読者を怖がらせようとするよりも単に悪趣味的な悪ノリを楽しんでたのかな―と思える。奇妙な味のアンソロジーとしてはなかなかの始まり。
 ハーヴィー・ジェイコブズ「バラと手袋」。不思議なモノを売るお店というジャンルで、本書の場合は子供の頃の思い出の詰まったガラクタ。傍目からは単なるゴミにしか思えない物のために、昔いじめていた相手の下で働いている人たちが半ばゾンビ化されたみたいで怖い。読んでて引くのは、主人公はこのガラクタ屋を、いじめてはいなかったが、明らかに見下しており、今でもそれを隠そうとしていない。ガラクタ屋の方も主人公を恨んでるわけではなく、復讐する様子もなく、淡々と主人公の思い出について交渉するのが変な緊張感がある(しかも「中性子爆弾のPRをしろ!」だって)。
 結局、主人公は無事に買い取ることができ、そしてお金以外の代償を払っておらず、ガラクタ屋がいじめられっ子だったことに物語的にケリをつけてないんだけど、そこのチグハグさが僕にとっては奇妙に感じた。

 キット・リードの「お待ち」。性の通過儀礼モノ……と書いてて今フッとわかったのだが、少女から女性に変わるってのは作中では「病気」として描かれていたのか! 読んでる時はこのことに気付かなかったのでいまいち印象がぱっとしなかったが、理解できたら名作に思える。
 母子家庭の母と娘が2人っきりの旅で不思議な街に行く。そこの人々は病気になると広場で自分を見せ、街の一般人から適切な治療を受けていた。母が病気になり、この街に留まる中、娘は親切な一家に泊めてもらう。母の病気が治らず滞在期間が延びる中、娘は18歳(結婚適齢期)になり、他の街の娘と共に広場とは別の場所で自分を見せることになった。昔ながらのモラルを押し付ける母に嫌気がするものの、娘は抗えきれず街のしきたりに身を任せ、醜い老男に「治療」(*作中では明言されない)されるのを待つ……。
 というあらすじ。最初はお母さんが病気になって、変な街でさあ大変って感じなのだが、徐々に母親の支配的な態度や街の若い女性に対する態度に違和感を感じ始める。そして、上記に書いたように少女から女性になる儀式が街の人からしたらロマンあるっぽいのだが、読者や主人公である娘からしたらモノ扱いされており、一方で主人公の母は貞淑さなど古びたモラルをよりによってこの街で押し付け、結果として娘は貧乏くじを引きまくることになる。ジェンダーと世代という問題をわかりやすく扱っている。

 フィリス・アイゼンシュタイン「終わりの始まり」。ゴースト・ストーリー。奇妙な味か? と聞かれると奇妙じゃないなあと思う。兄と妹の確執を亡き母が仲裁する内容なのだが、この程度で仲違いが治まるのだろうか。問題の根深さに比べて母親があまりにも軽く仲直りを勧めており説得力に欠ける。冷静に考えると、母親が生きていることを知った違和感は妹だけではなく兄も抱かなくてはならないはずだが、読む限りでは兄は違和感を感じていないようで、そこの非対称性が気になる。
 エドワード・ブライアント「ハイウェイ漂泊」はあまり心に残らなかった。感想文を書こうと思っても何も書けないや。
 ケイト・ウィルヘルム「銀の猟犬」はこれぞ奇妙な味という作品。主人公である女性にひっつく2匹の銀色の猟犬は何の象徴なのか。猟犬が現れてから主人公の夫に対する不満が爆発し、さらに父親の記憶を思い出す。猟犬が不気味なのは、この手の存在って普通は登場人物に危害を加えるのが物語の常なんだけど、この作品ではその手のわかりやすい危機は起こらず、消えてしまう。残ったのは猟犬によって現れた主人公と夫の間のしこりだったり、主人公が子どもたちから舐められていることだったり。物語は終わるんだけど、むしろこの後の人生のほうが気になる。もしかしたら、猟犬とは人生の転機の暗喩かもしれないと今考えたけど、それだと2匹いる意味はないか。やっぱりわからん。
 シオドア・スタージョン「心臓」。非常に短いながら意外性に溢れたラスト。奇妙さは抜群。あまりにも短く、ネタに依存した作品なので感想すら書けないが、ぜひとも読むべき。面白い。
 フィリップ・ホセ・ファーマー「アケロンの大騒動」はオチがすっきりしていて、奇妙な味ではないのだろうが、どんでん返しがあって苦い作品。個人的にはミステリーの味わいがあり、好青年と思われた人が実は……とか、怪しげな雰囲気を抱いた博士が単なる……だったりと真相が明らかになる楽しさがあった。死者が蘇ったら迷惑なので金をもらうってのが皮肉が効いてて良い。奇妙さはないけどよくできている。

 ロバート・エイクマンの「剣」は、作品の完成度とは別に大好きな雰囲気である。主人公がある街に行き、そこで興行されたショーの看板娘に惹かれ手に入れるも、娘の体に幻滅した、という作品。薄暗いサーカスの中で残酷な出し物が行われる中、出演した少女に惹かれるのはいかにもありそうな筋立てで、それが性的な関心にすり替わるのもあり得るお話。最終的に、少女はもしかして自動人形みたいな存在だったのではなかろうかと思わせる(もちろん別の解釈もできる)。何にせよ、観客の手で体に剣を刺されても血を流さないし、剣を刺され終わると1人ずつキスをして解散って描写と、興行師と共に主人公と3人で食事を共にするオフの雰囲気のギャップ、そしてベッドに入って様子がおかしいなと思っていたら手首が取れてしまうのがある種のエロティシズムを感じさせるのだった。
 G・K・チェスタトン「怒りの歩道──悪夢」も心に残らなかった。読み返してもいまいちピンとこない。
 ヒラリー・ベイリー「イズリントンの犬」。犬が喋ることで家庭が崩壊するお話なんだけど、冷静に考えると犬が喋らなくても詰んでいたわけで、実は犬の会話の有無は物語に影響しないと考えると奇妙なのかもしれない。犬に言葉を教えた女中は本来ならキーキャラクターのはずだが(それこそ一家の子供とかよりも)、途中から存在感を失うなど、読んでて手際の悪い部分が見られた。犬が喋るならもっと喋った恐怖を見せてほしかった。
 表題作であるカール・エドワード・ワグナー「夜の夢見の川」。確かに奇妙な作品だ。護送車の事故によって逃げ出した女囚人が駆け込んだお屋敷。そこで出会う女主人と妙齢のメイドは主人公である女囚人を怪しまずに受け入れ、逆に屋敷から逃がそうとしない。かつてこの屋敷に住んでいたことが示唆される女主人の娘、女主人は主人公をどうやら娘と重ね合わせてるみたいで、メイドは主人公にちょっかいを出す。一連の流れが架空の書物と重なり、真実は何なのか?
 館モノで百合あり、BDSMありの盛り込まれた作品でもある。というか、ホラー作品として認識してしまえば真実なんて気にならなく、怪しい雰囲気の三角関係に浸れて良い。奇妙な味ではあるんだけど、それ以外のフックがあまりにも大きすぎて普通の小説として感じられた。しっかしタイトルが美しくて良いなあ。「The River of Night's Dreaming」、格好良い。

 しかし、調べていたら、この作品ってクトゥルー関係という情報を発見したが本当なの?

 前作「街角の書店」よりは収録数が少なくなっており、その分1作あたりのページ数は増えたと思う。濃い物語を描けるようにはなったものの、合わない作品はひたすら合わないままページをめくるので良し悪しが別れるだろう。オチがわかったり、奇妙さがない作品も多く収録されているので、奇妙な味に抵抗を持つ人にも読んでほしいなあ。
 ぜひとも次のアンソロジーが出て欲しい。

「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」(ティム・バートン監督、20世紀FOX、2016)

 絵は素晴らしいけど設定とシナリオがとっちらかった作品、というのが見終わった後の感想である。
 特に設定面は致命的で、この作品はタイムループものというファンタジーの皮を被ったSFであり、さらにループだけでなくタイムトラベルも関わっている。つまり、物語の舞台は現代→1943年へタイムトラベルし、さらに1943年9月3日をループした後、1943年9月3日を経由して2011年で決戦を迎えるのだ(ラストシーンは2011年から再び1943年へ……)。これが複雑でなくて何と言おう。バック・トゥ・ザ・フューチャーですらもう少しわかりやすかった。正直、2時間程度で碌な説明もないまま時間軸を色々動かすのは無謀だったと思う。タイムトラベルの条件も特定の場所を通るだけなので、舞台が動く中盤以降は今のシーンがいつの時代なのかがわかりにくかった。

 シナリオ面で今一つだったのは、原作に続編があるせいか、主人公の成長が見られなかったことだった。現実世界で友人もなくいじめられ親からも理解されず居場所がない少年が、実は非凡な力を持っており、その力のお陰で異世界に行けて、さらに彼にしかできない任務を与えられ英雄的行いを成し遂げ恋人ができる。展開自体はジュブナイル系というより絵本でもよくありそうな行きて帰りし物語なんだけど(そもそもハリーポッター……)、本作の場合は元の世界に戻らないのだ! そもそも主人公は最後の戦いの果て、元の時代ではなく時間軸のずれた世界に放り出されるのだが(この時点でちょっと、ね)、恋人を求めてタイムトラベルポイントを何箇所も辿って、ついに恋人の世界に帰る! あれ、元の世界の親御さんはどうなったの? これ、シナリオ的にダメなんじゃなかろうか。
 さらにだ、主人公が暮らそうと決めたループ世界なんだけど、客観的に見て恐ろしい世界ではなかろうか。映画の序盤~中盤でループ世界が描かれるんだけど、ループしてるからみんな毎日何時何分に何の出来事がわかるか覚えている。逆にいつも通りのスケジュールで動かないと怒られる始末。永遠に生きることができ、食べ物とかも困る描写はないが、究極のディストピアである。
 そして主人公の恋人となる女性も、元々は主人公の祖父が想い人だったらしく、そこら辺の伏線も解決できずに終わってしまったっけ……。主人公の祖父に恋してたから主人公に脈はない、と言われていたが、いつの間にか両思いになっててびっくり。特に解決する必要のない設定ならなくても良かったんじゃないの、主人公の祖父の想い人設定。

 ビジュアルは面白い。空気より軽い少女、手から炎を放つ少女、ハヤブサに変身する女主人、無生物に命を吹き込む青年、夢の内容を目から映写できる少年……。コレラに加えて適役である化物と怪人がおり、怪人は悪趣味な描写で怪人っぽい。
 バトルシーンも迫力があり、骸骨の群れVS化物はいくら骸骨だと言っても手に汗握っていた。半透明な化物も半透明だから見にくいことはなく、色々観客から見やすいように効果を付けてくれていた。
 それだけに設定とシナリオが今一つなのは惜しいと言わざるをえない。やはり続きモノの第1作目を無理やり単独の作品に仕立て上げた弊害かねえ。

2017年7月19日水曜日

「貞子VS伽椰子」(白石晃士監督、KADOKAWA、2016)

 ホラーは苦手だが、この作品はタイトルからして笑わせにかかっていると感じたので、DVDで見てしまった。良い意味でも悪い意味でもその期待が裏切られた。

 この作品は、「フレディVSジェイソン」とか「エイリアンVSプレデター」的な人気のあるキャラクターをクロスオーバーで出してお祭りにしよう的な作品だと当初は思っていた。つまりホラー要素が薄いか、または単なるスプラッターになっていると思ってたんだ。
 でも実際に見てみたらちゃんとしたホラーになっていて面白かった。貞子と伽椰子という2要素がいて、ホラー要素が分散するかと思ったけど、意外と言っては失礼だが、上手くまとまっていた。もちろん設定は微妙に変わっており、例えば呪いのビデオは確か「リング」だと7日の猶予があったのに、今作では2日に変わっている。インターネットとかの影響でスピード感を出さねば古臭いイメージになってしまうので、良改変。ちなみにインターネットと言えば、呪いのビデオをネットにアップするシーンとかDVDに焼くシーンとかがあって今時の恐怖感はあったのだが、元ネタの怖さは薄れていたと思う。
 ただし、物語は基本的に呪いのビデオを中心として進むので、伽椰子&俊雄君はあまり見せ場がなかった。やっぱ呪いの家なんて向こうから物理的にはやってこれないから、人間が立ち入らなければストーリーに関われないんだよなあ。呪いの家系のエピソード&貞子を伽椰子にぶつけよう! のシーンは正直無理があった気がする……。
 ちなみにこの貞子VS伽椰子による呪いの対消滅を計画した霊能者が登場すると、いかにも呪いが解決できそうな雰囲気になる。それまでのリアリティのある日常描写とは一線を画すファンタジー感満載の姿だ。何と言っても、手でお祓い(?)すると本当に霊能力が発動したり、盲目だけど霊感のある少女を連れていたりとマンガ的に描かれている。今までの雰囲気を壊すキャラクターであり、同時にストーリーが終わるんだ、呪いが解決するんだ、と視聴者に安心感を与える。

 が、実はここまででタイトルにもなっている貞子と伽椰子が戦うシーンはない。そもそも映画全体を見ても、貞子と伽椰子が出会ってからラストになるまではスタッフロール含めて15分前後しかない。冷静に考えると、2人とも最終目的は人間を殺すことなので直接的なバトルにはならないんだよな。
 この映画は真面目にホラーをやっているが、ホラーをやってしまったためにインパクトが薄れた面もあると思う。例えばターミネーター2におけるT-800とT-1000みたいに延々と肉弾戦か超能力戦を行うことを期待していたら短すぎると思うし、はたまた単純に呪いによるキルスコア勝負を期待していたら被害があまりにも少なすぎる。幽霊が出るホラーという題材の限界なのかもしれないが、お祭り感満載の派手な映像にはなっていないのがタイトルに比べて残念だったと思う(この内容なら、「リングにかける呪怨」的なVS要素がなさそうな名前にした方が良かった)。

 最終的には除霊が失敗し、貞子と伽椰子が融合してとんでもない呪いというか化物になって霊能者もろとも登場人物は全員死ぬことを示唆して終わるんだけど、素体が素体だけにビデオを介するか、家に引きずり込まなければ殺せないと思うんだ。インターネットにビデオがアップされたと言っても、有名動画サイトから削除されてしまえば被害も拡大しないし、ねえ。
 貞子も伽椰子も既に攻撃力が極めて高いのだから、それをかけ合わせて更に攻撃力を高めたところで怖さは比例しないのであった。インターネットに拡散するなら、テレビでサブリミナル映像みたいにこっそりと放映されて、日本人の心の奥底に刻まれ(序盤のミームだ!)、ふとしたタイミングで心の奥の呪いが解けて殺しまくる(多重人格探偵サイコだ!)みたいに量を増やすか性質を変えるかした方が良かったと思う。

 と不満も書いたけど、「リング」と「呪怨」のリメイクを早回しで見るみたいな目的には良いかもしれない。どちらも今の時代に見るには時代遅れになった部分が目に付くので……。

「箱入りドロップス」(津留崎優、芳文社、全6巻)

 青春とは人生の初期に数年で終わってしまうから、光り輝くものなんだよね~と読み終わってから考えた。
 ジャンルは4コマ日常系ラブコメ。苦手な人は苦手なジャンルだろう。僕は実のところ、日常系や4コマ形式とは比較的相性が良くて、飽きなければ読めてしまう。6巻で終わるので手軽に読めると思って手を出したのだが……。

 このマンガの全ては箱入り娘と評されるヒロインが表している。学校にすら行ってなかった彼女が主人公の家の隣に引っ越し、それから共に同じ高校に通うシーンから物語が始まるが、何と言ってもヒロインの最大の特徴は1人で横断歩道すら渡れないってところだろう。家から出たことがないので自動販売機すらわからず、ある意味でその手のキャラの典型といえば典型的なのだが、しかし純粋で好奇心が旺盛なところがテンプレートさを感じさせない。
 ヒロインが新しいものとして驚き楽しむ生活の全ては、僕達(そして主人公などヒロイン以外の登場人物)からすると珍しくもないものなんだけど、毎日が新しい経験の連続である学生の象徴でもあると思う。それは、この作品はちゃんと時間が流れていることでもわかる。3年間を描いた作品であり、バレンタインデーとか同じイベントがあるものの、起きる出来事は過去を踏まえてラブコメ的に前進を続ける。
 そして楽しい時間も終わりを迎え卒業式を乗り越える姿は、この作品を読んでいた読者の姿と重なる。ヒロインが主人公に依存せず自分で歩みを進める姿は良いものだ。僕は単行本を一気読みしただけだけど、雑誌でリアルタイムに読んでいたファンは辛かったろうに……。
 しばしばマンガなどへの批判として出されるような突飛な設定はなく(強いて言えばヒロインが箱入り娘ってことだけど、引きこもりと同じような描かれ方だから気にならなかった)、リアリティのある世界でリアルな悩みを抱えてそれを乗り越えるキャラクターが輝いていた。

 ラブコメ部分も面白い。ヒロインと主人公がくっつくのは1巻を読めば想像がつく……というか、このヒロインの造形からして主人公と別れる選択は作品の雰囲気からしてないなと思っていた。ではどこでラブをコメディにしているかと問われると、恋愛感情がなかった男女が一緒に行動する中で恋に芽生えるドキドキ感、それとは別に主人公たちの仲良しグループであるサブキャラ3人の恋愛模様。むしろ、憧れの先輩に恋破れたり、先生への恋心を秘めていたり、好きな人の恋愛を後押ししたりとこの3人の方がよほどラブコメしていたわけで、彼ら彼女らがラブ分を引っ張っていたと思う。途中で主人公に恋する後輩が出てきたけど、当て馬感半端なかったしな。実は、僕はあまり恋愛に興味はないので(キャラクターがわちゃわちゃ動くほうが好きなのだ)、サブキャラにラブ要素を盛り込むのはなかなか読みやすい手法だと思った。

 というわけで、理想的な日常系だと思う。日常系にもいくつかあって、超常的な設定のある世界で日常を描いた作品も見られるが、僕にとってはそれは日常ではないのだと声を大にして、いやわざわざ言う必要はないか。
 僕は、日常系は読者が感情移入できるようにして、読者の人生と寄り添い励ましてくれる作品であって欲しいと思っているので、そういう意味でこの作品は素晴らしい日常系だと思った。

 個人的に感動したのは6巻。前の巻までの高1・高2・高3の主なイベントがまとまっており、さらに掲載誌で載っていた(らしい)カラー扉絵が収録され、著者の後書きでは登場人物のその後のアイデアが書かれている。愛されてるなあ。出版社や著者にこれくらい愛された作品はやはり読んでいて心地良い。

2017年7月3日月曜日

「街角の書店」(フレドリック・ブラウン他、中村融編、創元推理文庫、2015)

 奇妙な味と呼ばれるジャンルが好きだ。幻想文学に近いがそれよりも不条理さを強調した作品、と捕らえている。しかし不条理小説と読んでしまえるほどナンセンスさや無意味さは少なく、では寓話かと聞かれると恐らく寓話と呼べるほど現実世界とリンクしていない。怪奇小説とも関連がありそうで、確かに読み終わるとゾクッとする作品もあるにはあるのだが、怖さが必要条件というわけではない。正直、奇妙な味というのはジャンルとしては非常にマイナーで、強いていうと先に挙げた幻想文学とか不条理小説に分類されてしまう。
 しかし現実とは薄皮一枚隔てて現実感のある異常な物語が、さぞ何か意味を含んでいそうな顔をしながら、でも読めば読むほど意味を感じることも出来ず、それでも何か風刺や暗喩が隠されていたり普通のエンターテイメントな味わいなんじゃないかと期待できて、読んでいる最中はビルを2階3階と上がっていく面白さがあって、最後に最上階で何かが起こるかと思えば途中の階の窓からポンッとボールを外に放り投げられて終わる、そういう嫌でもないけどスカッとしないが内容を反芻する楽しみは十分にあるのがこの奇妙な味と呼ばれるジャンルだ。もっとも、評者や編者によって奇妙な味という言葉はブレがあり、面白いんだけど奇妙な味って程でもないなーと僕からは思える作品も多い。僕だって自分が好きな奇妙な味が、世の中にいるであろう奇妙な味ファンと一致するとは思えないのだ。
 だからこそ、この手のマイナーなジャンルはアンソロジーで数を読みこなし満足する作品を歓迎したり、思っていたより違う作品でも別のジャンルだと思って読むのが良いのだろう。幸い、奇妙な味は隣接する幾多のジャンルとも読後感が似ている。好きな作品に出会えるアンソロジーは大歓迎である。というわけで、本書に収録されている作品を僕的に奇妙な味か否かで評価してみた。
 あ、奇妙な味ってショートショートの作品集って表現するのがが一番それっぽいかも。

 トップを飾る「肥満翼賛クラブ」は奇妙な味の代表的な作品と読んでも良いだろう。外見や食感はまあ普通なのだが、味わうと顔をしかめたくなる。これは何だろう。作者は何が言いたいのだろう。肥満翼賛クラブでは会員の夫の肥満度を競うコンテストがあるのだが(この時点で小説だから着いていける人は多いだろう)、優勝者の健康は著しく悪そうなのに何で誰も文句言わないのだろう。そもそもこの作品って全体的に楽しそうな雰囲気で書かれているがデブ男性がクレーンで体重を測られるのって別に楽しくもないよね? そう、これが奇妙な味なのである。ちなみにラストシーンはそれまでの朗らかな内容に不気味さを被せてくる内容。これってカニバリズム入ってない?
 次の「ディケンズを愛した男」は、普通の冒険小説と言っても良いほど普通なんだけど、何だか普通の小説とは異なる。とは言え、舞台がジャングル、登場人物がそこの住民なので不穏さが薄れるんだよなー。ある意味で奇妙な味は文化に強く依存した作品ってことがわかる。
 そして編者が愛するシャーリィ・ジャクスンの「お告げ」。スラップスティックとでも呼ぶのだろうか。偶然が偶然を呼んで登場人物の行動が繋がる作品。この作品はみんな良い人達ばかりなので読んでて安心感がある。奇妙な味って感じじゃないかな……。
 「アルフレッドの方舟」。これだ! これが奇妙な味なんだよ! 普通の世界、普通のキャラクター、普通の出来事なんだけど、何かボタンを掛け違えてしまってヘンテコリンな騒動を引き起こす。ノアの箱舟に想起され、自然現象を過敏に解釈した人々がやらかしてしまったって内容である(本当に神が雨を降らして人間の悪意をさらけ出そうとした、って解釈もあると思うけど、それだとあからさまに幻想的すぎて僕の趣味には合わない)。
 そして次の「おもちゃ」も奇妙な味である。小さい頃の思い出ばかり売っているこの店はなんだ。そしてなぜ主人公は訝しまずこの店を受け入れるのだ。他人の思い出を描いたがる婦人の群れはどういった集団なのか。最後に主人公はなぜトラックのおもちゃを買ったのか。全てが少しずつ普通でなく、全体を通して不穏さを掻き立てるのが上手い。
 「赤い心臓と青い薔薇」も何とも言い難い不気味さ。もちろんこれも奇妙な味。なんだけど、なんとなーく自分に合わなくてあまり読めてない。読んでてワクワク感が何かないのだ。ごめんなさい。
 次の「姉の夫」は、普通の怪奇小説では? 我ながら奇妙な味である「赤い心臓と青い薔薇」が読めなくて、奇妙な味でないこの作品を読めてしまったのは不思議。落ちも普通に幽霊である。
 そして次の「遭遇」も同じく怪奇小説っぽい。解説にはSF的にも読めるぜ、って書かれてるけど、そうなんだ。僕としては普通のゴーストストーリーとして読めたし、それ以外の解釈は難しいなあ。誰か教えてください。
 「ナックルズ」。解説でとある作家がアイデアに悔しがったと書かれていたが、確かにこのアイデアは単純ながらコロンブスの卵である。早い段階でストーリーのオチは見えているのだが、アイデアが見事にキマっているので先が見えて退屈ってことはない。
 「試金石」はこれぞ奇妙な味。結局、この試金石って何だったのだろう。「人間に似たものが生まれる前に、世界の泥のなかで息絶えた生命の一種」って何のことを指しているのだろう(キリスト教的な何かか?)。何で試金石を握ったら人が変わってしまうのだろう。この意図的な説明の省略が奇妙な味の醍醐味で、恐らく作中に説明があったらSFとかファンタジーとかに分類されてしまうのだろう。そして物語は輝きを失うんだろうなあと思う。でも試金石って本当になんだろう。
 「お隣の男の子」。変な人系の奇妙な味だ。だいたいここら辺まで読むと奇妙な味のパターンがわかってきて、違う意味で面白い。
 「古屋敷」。何だっけ、すごく短いので覚えてないや。
 「M街七番地の出来事」。うん、奇妙な味だ。でもどちらかと言うと幻想小説に近いかも。チューインガムが意思を持って人を襲うってシチュエーションは笑いの中に恐ろしさを感じる。
 「ボルジアの手」。オチがある。奇妙な味警察は見逃さない。これは絶対に奇妙な味ではないぞ。非常にコンパクトにまとまった幻想小説だ。とは言え、この作品の作りだと普通の小説では、ボルジアとナポレオンはちょび髭のドイツ第三帝国のおっさんと本質的には同じだと示唆しているのだが、それで良いのか。
 「アダムズ氏の邪悪の園」。うん、奇妙奇天烈。プレイボーイの編集長の話が解説であったのだが、いまだにこの作品との関連がわからん……。いや、主人公の元になっていることはわかるが、単に人物造形の手本にした感じしかしない。僕にとっては解説こそ奇妙な味がした。内容的には近年流行りのクトゥルフモノを元ネタにした怪奇パロディみたいな感じを受けた。
 「大瀑布」は奇妙だろう。読んでいくと滝の上が現世で、滝の下が死後の世界かと思いきや、それにしては奇妙だ。そもそも死が滝というのは独創的すぎて、死のアナロジーと考えるのは誤っているのではないかと思う。こんな風に一件単純ながら何回も読み込み、考えなければならない作品が好きだ。
 「旅の途中で」。奇妙な味。いきなり首と胴体が切り離されているのも驚きだが、首が胴体と合体するためひたすら旅をするストーリーにもびっくり。アイデアの勝利だが、首が歩き(這い)、胴体をよじ登って、胴体と接続するためジャンプするなんて描写を刻々と描いたのは世界でもこの作品くらいだろうなあ。これくらい現実感が薄ければ意味を見出すきにもなれない。読んでいて楽しかった。
 「街角の書店」は個人的には奇妙な味とは言い難い作品である。普通の、ちゃんと始まりと終わりがあって事件の謎も物語の真相もわかってしまう、そういう幻想小説だ。もちろん奇妙な味でないから面白くないなんてことはない。
 この作品は小説読みなら誰でも夢想したことがある世界を描いている。小説読みなら一度は自分の小説を書きたいと思うだろう。その小説は必ず世界中のどんな小説よりも面白い。どんな小説よりも深遠なテーマがあり、どんな小説よりも奇抜なアイデアを持ち、どんな小説よりもキャラクターが魅力的で、どんな小説よりもエンターテイメント性にあふれている。しかし小説読みはそれを書くことはできない。恐らく小説家という人々は万人受けするほどほどの作品を始めて終わらせられる力を持った人々なのだ。悪口ではなく、小説を書けるのはそれだけの凄さであり、普通の人々には努力することすら難しい。でも、実は誰でも1つだけ小説を書くことができる。それは唯一無二の、でも悲しいかなその人以外には面白さが伝わらない小説だ。よく様々な創作の中で、とてつもなく怖い作品・笑える作品などが描かれていて、実際に読むと拍子抜けすることがあるだろう。場合によっては内容を描写しないことによって怖さなどを読者に示すこともある(でも映画の「リング」の呪いのビデオは確かに怖かったな)。小説は読まれなければ意味はないが、でも読まないからこそオーラを維持できる。下手に感受性のことなる読者が手に取ってもその小説にとっては不幸なだけなのだろう。
 街角の書店は現代だとどこに現れるだろう。偶然入り、出会った素晴らしい本――人生――を読み、現世に持ち帰ろうとして叶わなかった小説読みは、入ることができない倉庫からクリック1つで発送される現代を何と考えるだろう。

 という訳で、感想文を書けた。
 いや、疲れた。こうしてみると自分の好みがわかって良かった。

2017年6月29日木曜日

「怪物はささやく」(フアン・アントニオ・バヨナ監督、ギャガ、2017)

 どうして空想の世界に浸るのだろう、と悩んだことがある。これが音楽やら言葉やら絵やら演技やらに秀ていれば、そういう道に進むこともでき、空想も自分の糧となったと胸を張れただろう。悲しいかな、僕は才能がないので、空想は単なる空想で、しかもその世界は当時ハマっていた映画やアニメのパクリでしかなかった。いわゆる二次創作ってやつだ。確かオリジナルキャラも出ていたような気がする。そういう遊びを小学校2、3年生から行い、思春期に悩んだ末、いつの間にか空想の世界への扉は閉ざされていた。
 この映画も空想の世界=物語が1人の少年にとってどういう慰めになるか、慰めになっていたか、慰めとなるべきかを描いた作品だ。主人公である少年の現実は過酷だ。母親は闘病生活、友人はいなく学校ではいじめられ、祖母とは全くと言って良いほど性格が合わない。そんな彼が見出した希望が空想への旅であり、そこから脱却し現実を直視するまでの過程が描かれている。映画のメインビジュアルには怪物が出てきたり、あらすじではその怪物が3つの物語を語るとあるが、映画が始まって少し経つとそれらがメタファーであることがわかってくる。
 少年の深層心理であろう怪物(ちなみにこの「深層心理」という言葉、何にも語っていないことに気をつけよう)が語る物語は、当初は何にでも取れるような曖昧であやふやな寓話だったものから、徐々に少年の置かれた現状と少年の行動原理を表したものに変わってくる。例えば1つ目の話は善人と伝えられた人が悪人で悪人と伝えられた人が善行を行っていた、みたいなもの。この作品では物語パートは影絵のようなアニメーションで描かれ、それが綺麗なのだ。1つ目のお話の段階ではまだ物語の意味はわからない。だが、2つ目は治療方法を信じなければならないという少年の現状にやけにリンクしたお話。これはもう、少年が信じたいことを怪物に仮託して自分に語らしている。そして3つ目は無視され続けた透明人間が怪物を召喚して暴れるお話。視聴者は、怪物がとうとう少年の欲望をささやく存在に、中立な立場ではなくなり少年の深層心理そのものになったことを知る。一通り暴れた少年が校長室に呼ばれ、問い詰められる中で「自分がやったのではない」と答えるシーンが印象的であった。恐らく少年は自分で暴れることを選択したとは思っていないだろう。
 しかし、とうとう少年は怪物と折り合いをつける時がやってくる。怪物は少年に真実の物語を語らせる。真実とは何か。なぜ少年は怪物なんてものを作り上げざるを得なかったのか。それが明かされるのは、意外とあっけない。肉親の看病をしたことがある人にとっては、口には出さなくても考えたことはあるはずだ。大人なら一時の気の迷いで済ませそうなことだが、少年にとっては罪悪感を抱くことなのだろう。それに目を背けるため、怪物を呼び寄せたのだ。
 自分の感情を直視した時、少年は母親と本当にわかりあえる。上で怪物は少年の深層心理と書いたが、それはフェイクで、母親こそが怪物またはそれを産んだ存在だった。最後のシーンで少年が母親のクロッキー帳をめくるのが印象的だ。肉体としての母親は無くなったが、記憶はもとより、母の作った空想は少年に受け継がれている。これこそ、空想が、物語が人間にとって大切である証拠ではなかろうか。

「ラ・ボエーム」(日生オペラ)

 この前、日生オペラのラ・ボエームを見たのだよ。
・日本語オペラは初めて。
・今までは字幕すら見ていなく、言語をそのまま聞くだけだったので、ある意味でセリフを歌として聞いていたため、重唱はこういうセリフなのかと驚いた。
・重唱は聞き取りにくかったが、日本語のせいなのか(母音が頻出すると聞き取りづらいと聞いたことがある)、もともと重唱が聞き取りにくいものなのかどちらだろう。
・しかし、重唱でのセリフがああいう感じで聞き取りづらいってことは、原語でも理解しづらいであろうからに、こればっかりは原語+字幕で見てもわからないなあ。
・何にせよ、内容を理解するレベルでオペラを見たのは初めてだったので良い経験であった。
・日生オペラ、安くて、でもちゃちくなくて素晴らしい。これからも見に行こう。
・パンフレットを買おうとしたら無料(チケット代に含まれている)でもらえ、しかもあらすじやキャストや作品の背景まで載っている豪華なもの。映画だと1000円クラスの品では?

2017年6月20日火曜日

「あなたの人生の物語」収録の「あなたの人生の物語」(テッド・チャン)

 「メッセージ」を見て、改めて「あなたの人生の物語」を読みたくなったのでそれだけ読んできたのだよ。
・小説では良い意味でのご都合主義(他人や相手を指で指すジェスチャーが宇宙人も同じだったとか)が、映画では説明不足だった。僕は「メッセージ」で宇宙人と地球人でジェスチャーが同じなのはおかしいと書いたけど、小説では言及があったのね(というより映画は単にラッキーなだけだった)。
・小説だとフェルマーの定理→あらかじめ目的がわかっている→フェルマーの定理を基本とする宇宙人は未来を知っている、の順番で伏線があったのに対し、映画ではそこら辺が駄目な感じでぼかされていた。映画でボロクソに書いた理由はろくに小説の伏線を入れてなかったからなのね。
・未来を知っていても自由意志はある、と断言する理屈は小説のほうが上手い。映画だと未来を知っているなら、何でその通りに行動しなければならないの? という理由付けが薄い。この、自由意志の問題は小説でも映画でもテーマだったので、映画は人死お涙頂戴モノになってしまったと思う。
・そもそも小説では僕がメッセージの感想文で不満を述べた部分への理屈がちゃんと書かれており、映画は本当に言葉足らずだと思う。
・でも、異星人が地球に来た目的や、クライマックスの緊張感は映画のほうが上手。さすがハリウッドだね。ちなみにこれは皮肉も混じっている。

2017年6月5日月曜日

「劇場版BLAME!」(瀬下寛之監督、ポリゴン・ピクチュアズ、2017)

 まさかこの作品が映画化されるとは思ってもいなかった。原作は好きだが、正直、キャラクターが生きてるのか死んでるのか、人間なのかロボットなのか、そもそも現実なのか電脳世界なのか、回想なのか現在の出来事なのかわからない絵柄で(褒めてます)、ストーリーもセリフが少ないこともあって何回も読み返さないと何が起きているのかよくわからないマンガだった。ページをめくるのにも時間がかかり、マンガを読み飛ばさせない戦略はかくの如く行うのかと感心したものだった。
 なので、映像化、それも2時間ほどの映画になると聞き、どうなるのか興味があった。

 映画を見て感動。原作では単なる1エピソードに過ぎない物語をよくぞここまで膨らませたものだ。何よりもちゃんと視聴者が感情移入出来るようになっている。原作者の弐瓶氏自体、アニメ化もされたシドニアの騎士は読者にわかりやすい物語を展開させていたが、まさかBLAME! もこういう風にできるとは。BLAME! にも人間が感情移入できる要素はあったんだね!

 キャラクターもCGで描かれたが、もう素人目にはセルアニメと変わらない。シドニアの騎士でも相当美麗なキャラデザイン・背景だと思っていたが、劇場版ということもあってかさらに進化している。ハードルがどんどん上がる。CGアニメってピクサー/イルミネーション系列のあからさまな立体感を求める路線が主流だけど(そもそも映像なんだから立体感は必要か)、わざとセルアニメっぽくノッペリと描く今作は平面的な絵柄の進化系だと思う。
 また、都市の内部構造も改めて線が整理されていて、こうなってたんだと感動。映像として絵が動くのを一番活かせるアニメである。都市ばかりでなく、各種ガジェット、重力子放射線射出装置とか、携帯食料とか、もろもろも動きのお陰でリアリティが出ている。
 しばしばヘルメットなど主観映像(?)が出て来るが、単なる雰囲気だけの要素にとどまらない。サナカンに殴り掛かる霧亥。格好良い! 霧亥のネット端末遺伝子なしの光景だけが延々と描かれていて、なんかターミネーター2っぽいと思っていたが、こう来るとは。あの殴り掛かるシーンはこの作品で1、2を争う傑作だと思う。

 音は事前に言われていたように素晴らしい。もっとも上映環境にもよる。家で見ると映画館のような上映環境はないので、多少評価が落ちるかも。ニコ生での制作者の発言によると、見えていないシーンでも視聴者の背面で効果音を鳴らしているくらい音響には気を使ったらしい。うーん、家で手軽に映画館みたいな環境を楽しめれば良いんだが、多分普通のスピーカーやヘッドフォンじゃ何が何やらわからなくなってる可能性がある。ネットカフェとかでそんなサービスやってたら、ちゃんとこの作品の円盤握りしめて見にいくぞ。

 というわけで映画館で数回見れて良かった。恐らく家だとこれほどの感動はないだろう。もっと弐瓶氏の作品が映像化されれば嬉しいし、またポリゴン・ピクチュアズがより活躍できることを応援している。

「メッセージ」(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、フィルミネーション他、2017)

 これ、ウィキペディアで調べたら、アメリカ公開は2016年11月なのに日本公開は2017年5月なのね。何でだろ。
 というわけで先週土曜に「メッセージ」を見てきたのだった。
 原作であるテッド・チャンの「あなたの人生の物語」はその物語構造もあってすっごくつまらない作品という印象しか残っておらず、予習しようとして内容が思い出せなかった。正直、これ以外もあまりあまり面白いと思えなく、僕はテッド・チャンとの相性は悪いんだなーと感じた。

 さて、この作品の肝であるサピア=ウォーフ仮説……ではなく、この作品の一番の特徴は未来が決まっているという決定論的宇宙観だろう。サピア=ウォーフ仮説なんてものは確定した未来というネタを料理するための小技に過ぎない。
 地球にやって来たエイリアンは3000年後の未来が見えるため、人類にそれを伝えに地球にやって来たというプロットだが、恐らくだけどエイリアンは時間移動はできないみたい。決定論的宇宙観を採用するなら時間移動も可能となるはずだが、それは行えず(時間移動が可能ならわざわざ今地球にやってくるのではなく、直接3000年後に行くか、または地球人が終末の日を迎えるきっかけの時にやって来た方が効率的だから)、しかし情報は時間を超えて移動できる模様(主人公が現在知らない情報を未来から取り寄せている描写より)。
 正直、かなり都合の良い設定であると思う。いや、この作品のテーマは「未来がわかっていても何もしないよりした方が良い」というものであり、それが主人公の娘の早すぎる死で表現されている。エイリアンの言語を学ぶうちに未来を見通せるようになった主人公は、自分が産む子供は若くして死ぬことがわかっていながら、でも産みたい・子供を持ちたいと恐らくは思って子供を産んだのだ。劇中では子供の生から死までしか描かれていないが、でも主人公の人生はまだまだ続くし、はっきり言って子供だって死んでそれっきりというわけではないよね。芸術家みたいに死んで有名になったり、生前から有名で死んでも惜しまれたりと、死というのはその人にとってはそれで終わりかもしれないけど、でもそれが全てではない。このような理由から「あなたの人生」が死ぬまでしか見えないのがご都合主義だと感じた。
 さらに考えると未来を見通せるってことは子供を持った経験や感情すらすでに現時点でわかっているので、今から子供を作る必要はないのではと思ったけど、わーおタイムパラドックス。
 そう、この作品、深く考えるとどうしてもタイムパラドックスがちらついてしまうのだ。そもそも僕達人類の脳ってもしも未来が確定していても未来を見通す能力って持っているのだろうか。主人公は英語という言語で未来を見通せない脳になってしまっているが、サピア=ウォーフ仮説は脳の制約以上の能力をもたらすことが出来るのか。
 ついでにもう1つの問いとしては、言語学者である主人公はエイリアンに人間の作法で言語を教えあってたけど、人間と姿形の異なるエイリアンに対して果たして通じるのだろうか。これだけでなく、主人公って基本的には慎重なんだけど変なところで大雑把なんだよな。というのも、ケン・リュウの「母の記憶に」に収録されている「重荷は常に汝とともに」で人間が自分たちの価値観で見ず知らずの物を自分勝手に解釈するってことを思い出したから。実際にこの主人公がエイリアンとコンタクト取ったら変な解釈をするのではないかと思った。

 文章全体が「あなた」に捧げる形で書かれていた原作に対し、映像化したが故に原作の特徴を殺してしまった。映像としてもエッジの効いたものではなく(思い出補正もあるけど、ドニー・ダーコみたいな作品が良かったな)、正直評価しづらい。
 言語SFなら「バベル-17」とか「神狩り」とか色々あるわけで、SFとしては中途半端だし文芸としてはSF要素が脚を引っ張ってる。
 日本の青春人死メロドラマ映画をハリウッドのSF技術で再現し、ついでに説得力を付けるため理屈をこねくり回したら収拾がつかなくなった作品。

2017年5月24日水曜日

「母の記憶に」(ケン・リュウ 著、古沢嘉通 他訳、早川書房、2017)

 この間、第一作目短編集を読み、著者のことを中国系アメリカ人として強調した感想文を書いた。僕はそれが間違っていることだとは思っておらず、しかし今作を読み、1点だけ見誤った部分を発見した。
 著者の作品はSFというよりももっと広い視野を持った空想のガジェットや発想を元に人間について語っているということだ。それはもはやSFですらない「草を結びて環を銜えん」、「訴訟師と猿の王」と「万味調和」を読むとわかる。前回、芥川龍之介を引き合いに出したが、歴史小説の中にファンタジー色の強い虚構を少しだけ入れ込み現代的なものを読ませる手腕は正に芥川龍之介の得意とする手法だったと思う。歴史小説としても、前2つは揚州大虐殺という日本人には全く馴染みのない題材で、後者はゴールドラッシュ時代の中国移民の物語というこれまた日本人にとってはほとんど馴染みのないもの。僕も読むまで出来事すら知らなかったが、事前情報なしで読み始めると意外と状況がわかりやすいのだ。井上靖のような現代人にもわかりやすく、されど中国チックな格調のある文体によってモチーフが不明でも先を読ませ、結の部分までには全体像を把握させる。
 「草を結びて環を銜えん」は前作ほどではないが感情に訴えかける作品だ。それは男を手玉に取り人々を虐殺から守った格好の良い遊女と対比される主人公が勇気がなく器量も悪く頭も悪い普通の人間で、でも最後に彼女ができること、彼女しかできないことをやり遂げた姿が美しいからだ。人情ものとして本短編集の中で1番好き。また、主人公が選んだ彼女だけの生き方は「訴訟師と猿の王」の英雄談義にもつながる。
 これは歴史から抹消された揚州大虐殺について、その事実を知った人間がいかに後世に伝えたか、というフィクションである。正直日本人としては南京事件を喚起させられるが、とりあえずそれは脇に置こう。この作品は孫悟空という英雄が実はそれほど英雄ではなく、一方で処刑された罪人が誰にも知られなかったが英雄であったという逆転の物語だ。孫悟空は主人公と会話するけど、現実に影響を与えているわけではないので、主人公の妄想と言っても構わない。そのくらい非現実要素のない、救いようのない物語だ。主人公は揚州大虐殺が書かれた本を逃し、そのため現代で言う秘密警察から拷問をかけられ殺される。面白いのは彼は何らかの勇気のある信念を持っていたわけではないのだ。そればかりか殺される直前になって後悔したりする。でも、結果として彼しかできないことをやり遂げたことで揚州大虐殺は後世に伝えられ、知る人こそいないが流されたように見えた彼は英雄であった、という筋書きだ。ある意味で「神様は全部見ている」的なキリスト教のお話とも読める。さらに自分のなすべきことを推奨されるのはアメリカ的な思考よりも行動に重きを置く思想として読めた。主人公は自分の行いに納得しているのか、「誰もが知らない英雄的な行い」とは褒め言葉になるのかわからない。なぜなら結局のところ当時は揚州大虐殺が隠されてしまい主人公は負けたからだ(この点が同じように歴史に残っていない英雄を描いたローグ・ワンとは異なっている)。さて、話を南京事件に戻そう。僕はこの事件があったと思っている。この事件については詳しくはないが、それでも両者の主張と根拠を多少読んで、あったと確信しているのだ。これが僕が本短編集を読んでケン・リュウに返せる回答である。
 「万味調和」は正直、前2作に比べると軽く読めた。最後の最後で突き落とされはするものの、何となく明るいのだ。舞台がアメリカであり、時代が近代ということもあり前2作で描かれた蛮行が現れないだろうという安心感。もちろん時代が時代なので人種の問題とか単純に明るいお話ではないが、それでも白人も中国人もフロンティアを求めて移住した同士という希望に満ちた作品である。

 SF系の作品だと、スチームパンクおとぎ話ものである「烏蘇里羆」が面白かった。熊は人に化けるというアイヌ伝説を元に、明治維新で北海道を開墾した人間に追いやられた熊と、その熊に両親を殺された男が機械の腕を付け満州まで復讐に訪れるというハイブリッドファンタジーだ。「紙の動物園」に収録された「良い狩りを」に似てるな―と思って読んでたら解説を読み納得。まさに「似てる」という感想を与えたいのでこんな順番にしたらしい。訳者の手の中だ。「母の記憶に」も短いながらインパクトのある作品。前短編集での過剰なウェットさがなくなり、そのためにかえって心を動かしやすくなったと思う。つまり感動した。最初に読むとどこがSFなんだろうと思えるほど、そのアイデアは慎ましく書かれているが、徐々に普通とは異なる面が現れてくる。実際にこの技術が実現した時7年に1度しか会えないということは、ある意味では死人も同然に、それこそ互いに思い出のコピーとして生きることになるが、それは幸せなのだろうか。凡百の作家ならここで問題提起して終わるが、ケン・リュウの場合は幸せだと、少なくともみんな自分の意思でこの選択を選び、後悔していないと宣言している。
 そんな思い出のコピーというテーマが全面に押し出されたのが「シミュラクラ」。技術としては人工知能を使うことで遠くない未来に実現しそうで、大人の男性である父と思春期の女性である娘とでありえそうな齟齬を描いた作品。一番最後にやっと母親の心の中が開陳されるのが前短編集の「紙の動物園」っぽかった。僕はどちらかと言えば娘の立場であり、娘と出会えないから娘のコピーで心を慰めていた父の心情は理解できるけど同情できない。そしてそんな父を赦せという母の気持ちはもっと不可解だ。テクノロジーにより人間性と乖離が生まれると書くとチープだけど、この作品の肝はテクノロジーではなくそれを使用したことで生まれた父娘のすれ違いなのである。そのためにケン・リュウはSFというフォーマットを使ったのではなかろうか。それが明らかになるのは「残されし者」。人間がソフトウェア化した(作中ではシンギュラリティと表現)という前短編集でも描かれたテーマであり、ソフトウェア人類の姿を描けばグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」みたいな面白い作品になるにも関わらず、描かれるのは離島の限界集落みたいなお話。人がいなくなり自給自足していた村がどんどん寂れる。でも伝統を守るのだ。島を出ていくことは許さん、的なお話。若者たちは表面上、うるさい親父に従っているが、大人になったのを機に親父の目を盗んで、若返ったおばあちゃんが楽しくやってるらしい都会に行ってしまう。うるさい親父が守ろうとしていた伝統=人間らしさとは一体何だったのだろうか、というのがテーマだ。「紙の動物園」と比べた時、今短編集で面白いのは、文字通りの人間らしいウェットさや感情が実はある種の欠陥を人間らしさと言い繕っているのではないの? 的な皮肉な視点が垣間見えることだ。この作品もソフトウェア化を拒んで得られた幸せは主人公の独りよがりなもので、ソフトウェア化した人々は幸せになるなり自分で選択したことで満足するなりしている。前短編集では見られなかったこのあからさまな対比は、「パーフェクト・マッチ」でテーマになっている。いわゆるAmazon的なAIによるおすすめが人間の意思を左右している近未来世界。マトリックスのようにそんな社会から目を覚ました主人公が人間らしさを取り戻す戦いを挑むのだが……。皮肉なのはAIを開発し人間らしさを奪った会社の親玉が「本当に」社会のことを考えていたということ。この会社は確かにマスデータによる客観的な形で差別や暴力性を実体化したが、もっと悪しき意図を持った企業がいくらでもある中それらよりはマシだし、むしろ差別などのある現状はAIの不十分さから来てるわけで、もっと改良しなければと言う。下手に我が会社を排除したら悪意を持った連中にめちゃくちゃにされちゃうぞ、と。もちろん詭弁だ。同時に主人公たちが取り戻そうとする人間らしさも詭弁でしかなく、今までは技術レベルが低かったので差別や暴力を表面化させなかっただけでしかない。改良することで問題を解決する意志のある非人間的世界と、問題を温存する人間的世界のどちらが良いか、という問題を僕らに突きつける(作中のAIの企業って良いことをするって言うくらいだからGoogleをイメージしてるよね)。

 その他SFだと、普通のサスペンスである「レギュラー」は面白いんだけど作中のガジェットである「調整者」の悪影響が描かれなかったので不満。23時間「調整者」を起動させ続けて主人公並みに問題ないなら、みんな23時間起動させれば良いじゃん。悪の視点から見た正義のヒーローものの「カサンドラ」。他の作品の輝きのせいで相対的に落ちてしまった。「上級読者のための比較認知科学絵本」は前短編集の「選抜宇宙種族の本づくり習性」のアップデート版。前の感想文でこの手のギャグSFを長編にすると良いのでは、と無責任に言ったが、短編とは言えストーリーになった本作はかなり面白い。やっぱり荒唐無稽なアイデアSFを物語にした方がこの作者は輝くのではなかろうか。
 別に現代の技術を用いた近未来を舞台とした作品が輝いていないと言うつもりはないが、でも「上級読者のための比較認知科学絵本」を読んだ後で印象が薄れた作品の1つが「存在」。異国の地のケアハウスにいる母をロボットアームを遠隔操作してたまに介護することで後ろめたさを感じないふりをする作品。良くないことだが、読んだあとで著者が中国系で、年長者を家族全員で支える文化があるからこういう作品になったのかなと思ってしまった。生活がある以上、できることとできないことがあるわけで、それでもロボットアームのお陰で現代の介護よりは遥かに「幸せ」な介護ができる社会だと本気で僕は思っている。現代日本のおっさんからすれば持てる者の悩みじゃないの、と感想をいだいてしまった。もう1つ印象の薄れた作品が「ループのなかで」。戦争とPTSDを扱った作品で、人工知能を使えばPTSDはなくなるとしてその開発をするのが主人公。もちろん予想されたとおり誤射を起こし、主人公はPTSDとまではいかずとも精神的なダメージを受ける様式美。イタチごっこという言葉が頭に浮かんだ。子供を使ってテロを行うってのはボコ・ハラムの誘拐のときも散々言われてたことで、チープな言い方だが会議室の中で行う戦争って今後もこの手の現実からの乖離が起こるんじゃないの?

 SFというジャンルを越えた作品では、「状態変化」がパーフェクト。奇妙な味だ。奇妙な味らしくストーリーもネタも紹介しづらいのだが(はっきり言って物語を読まなきゃ面白くない)、「銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件」(アンドリュー・カウフマン)とか好きな人は読んでみると良い。比喩も落ちも満足できること間違い無し。
 SFの皮を被ってSFではない「重荷は常に汝とともに」。シチュエーションのためだけにSFの振りをする姿が小憎らしい。内容は異なる文化を理解する上でのロマンと思考の限界といったところか。ロマンを与えなければ遺跡発掘の費用がおりず、でもロマンを求めて巡礼する人によって遺跡がダメージを受ける皮肉っぷりは現代の各種研究にも通じるだろう。
 歴史改変モノというか、事件らしい事件が起こらないファンタジー世界のような「『輸送年報』より「長距離貨物輸送飛行船」」。日常系の異世界モノであり、異世界で人々が暮らす様子が生き生きと描かれている。本当に何も事件が起こらず、主人公が飛行船に乗る様が随筆のように書かれるだけなんだけど、その描写力がまたリアルなのだ。正直、事件を起こさないなら異世界を舞台にする必要があるのかわからないが、ページをめくらせる描写力は素晴らしい。


 上の感想文内ではSFに分類したけど、「存在」「シミュラクラ」「ループのなかで」「パーフェクト・マッチ」は文学と言っても良い。未来を見据えた実現可能な技術で、将来議論になりそうな問題提起をしている。少し近視眼的すぎるかとも思えるが、技術と社会、そして技術と人間について描いている。
 ケン・リュウの作品は人間性について描いていると言われており、前短編集ではそれがアジア的叙情性だと考えていた。クラークやイーガンなど欧米人のメンタリティを持った人が書くSFとは感情移入を促す点で異なっていたのだ。今短編集ではむしろ必要以上にはアジア成分を入れておらず(題材がアジアンなのは「草を結びて環を銜えん」、「訴訟師と猿の王」、「万味調和」、「烏蘇里羆」)、それらもお涙ちょうだいにはなっていない。
 素晴らしい作品だった。個人的には真正面からのSFではない「烏蘇里羆」「草を結びて環を銜えん」「上級読者のための比較認知科学絵本」「状態変化」あたりが大好き。中国モノ、歴史改変スチームパンクモノ、ワンアイデアのSF小品は非常に優れている。まだ編集されていない短編があるらしいので、早く書籍にしてほしいと思う。

「クズの本懐」(横槍メンゴ、スクウェア・エニックス、全8巻、2017完)

 高校生以下と大学生以上の物語上の恋愛は異なる。とたいして経験もないのに感じていた。
 ティーンエイジャーとそれ以上、ではなく、あくまで高校生・中学生かそれ以上か、という対比だ。
 非常に感覚的な話なのだが、少なくとも「日本」の「男性向け」「マンガ」業界で描かれる「コメディ」寄りの恋愛というのは高校生・中学生の恋愛に特殊な意味付けをしていたと思う。このマンガを読んでその思いがはっきりとした。

 さっさと結論を書くならば、それは処女性というものだ。少女向け・女性向けマンガはたとえキャラクターが学生であっても性行為を厭わないケースが見られるが、男性向け、特に少年マンガの場合、女性キャラの処女性を極めて崇高なものとして扱う。肉体的な意味だけではなく、精神的な意味も含めて。世の中には性に関する情報が飛び交っておりキャラクターたちの日常にも影響を与えているが、一線だけは越えない、というのがよく見られる。
 例として挙げると、同じ作者の「レトルトパウチ!」(集英社)なんかはまさにそうだった。ついでだから他の作品も例に考えると、集英社つながりで「ゆらぎ荘の幽奈さん」(ミウラタダヒロ)、サンデーだと「天野めぐみはスキだらけ!」(ねこぐち)、古いけどマガジンの「スクールランブル」(小林尽)とか。それぞれハーレムモノだったり1対1の恋愛モノだったりコメディだったりシリアスだったりするが、総じてメインヒロイン格の女性は清く欲望を抱いても男性にとって御しやすそうな、そういったレベルである。性に奔放なキャラでも元からそういうキャラ造形をされていて、それで下手をすると実は耳年増なだけで初だった……とかいうパターンまである。まあ、お約束だ。細かいシチュエーションは忘れたが、僕が高校生だかの時、後ろの女子たちが朝勃ちについて話してたような、そういった男性から見た女性の異質さというのは少年マンガでは描かれにくい傾向にある(成人マンガはもちろん話が別だが、アレはアレで異なるベクトルのパターン化されたキャラ造形がある)。
 そして、面白いと言ってはいけないが、一方では性行為の暴力性をも隠蔽してきた。「いちごの学校」(きづきあきら・サトウナンキ)で描かれたような性行為の実際的な負の側面は描かない。恋愛の尊さとロマンと欲情だけ与えて、現実で必要な知識を隠す。それが僕から見た少年マンガの世界であり、ヒロインの非現実的な清さ・無垢さの要因にもなっていると考えている。前述の「いちごの学校」ではないが、学生と先生の恋愛がごく普通にマンガで描かれるのも影を描かなかった結果であり、日本がロリコン大国だと言われる1要因にもなっていると考える。

 恐らくそれが編集部の方針なのだろう。いや、少年マンガ世界のお約束とも言えよう。僕は恋愛マンガが苦手であまり読んでこなかったが、それでも数冊読めばわかること、小説や映画と比較すれば気がつくことであり、全年齢向けの世界で現代的(ネットで性の情報がいくらでも得られる上に、エンコーという言葉が浸透しちゃってるのだ)修羅場のない高校生の恋愛を描こうとするときの手法なのだと思う。それにより、ヒロインの初体験を巡ってドタバタするラブコメマンガ特有のフォーマットの完成となる。

 実のところ、このマンガもそのような「お約束」から逃れきれていない。女性主人公はいくら性格が悪くとも、いやだからこそ、無垢さが際立つ造形をしている。彼女のライバルとなる初恋の相手を奪った女性教師に至っては作中でも似た言葉で表されていたが、文字通り「無垢」であり(精神的な意味で。でも性行為の意味がここまで違っていれば肉体的にもある意味「清い」のでは?)、しかも物語の終わり近くで恋愛が成就しかけると、きれいなジャイアン化するコンボまで繰り出す。男性主人公は一見好青年に見えて消極的なヤリチンというなかなか面白い人(作中で一番清くはないので、登場人物の闇のしわ寄せが来てたと思う。余談だが、彼が女性主人公に「友達いないだろ」と言った時、「お前の方がいないだろ」と思ったのは僕だけではないはずだ)。彼の初恋の相手を奪った男性教師は人間を止めてる清さであり、これまた一部のキャラの闇を引き受けまくってた感がある。
 そんな彼ら彼女らが、では何をもって処女性としているかと言えば、精神的なものだろう。作中では「初恋」と表現されていたが、高校生2人は初恋が破れ、教師2人は初恋が叶う。初恋が叶わなかった2人は成長し、教師2人は方向性はどうであれ恋愛が叶ったことで成長するシーンがラスト。それぞれ人生を1歩前に進み良かったね、と思う(なお、軽く検索した限りだと、女性主人公が男性主人公と別れたのに不満を持つ人は多いっぽい。いやー、あのまま傷を舐め合う関係も地獄だと思いますよ)。
 同時にやはりというか、男性向け・少年向けであるので女性キャラが多い。特に女性主人公に想いを寄せる同級生が女性であるってことはなかなか示唆的だろう。同性愛を描く上で男性同士ではなく女性同士。まあ、この男性主人公だとのらりくらりとかわしそうで、だから泥沼に嵌まらせるために好意を真正面から受け止める女性主人公を選んだのだと思うが、結果として性行為やその周辺の情報に対するフィルターとして機能してしまった。もう少し突っ込んで書けば文句なしの名作になったと思う。ファンは着いて来れないかもしれないが。

 誰も彼もが若いなーというのが感想である。僕が恋愛に興味がないだけなのかもしれないが、別にそれが全てじゃないんだし、意外と短い時間で立ち直れるかもしれないよ。特にこの作品のキャラはアイデンティティというか自己実現というか、片思い期間が長くて引っ込みがつかなくなって恋愛してる風でもあったし。

2017年5月17日水曜日

ナノブロックを作ってみた

 初めてナノブロックに触ってみた。普段はレゴブロック専門。
 本屋などでおもちゃとしてではなく、インテリアとして売られているナノブロックは、果たしてレゴブロックを脅かすのか興味があった。
 今回買ったのはこちら。人体模型だ。

 最初に箱を開けた感想はちっちゃい! 大人向けというより、手先が不器用だと大人でも作りにくい。それはわざわざナノブロック用のピンセットが売られていることからもわかる。個人的には、あまりにも小さいのでおもちゃとして作り甲斐はないなあ。
 ブロックの種類もレゴに比べて少ない。全部の製品を調べてはないが、昔の積層タイプしかないイメージ。スター・ウォーズ的な戦闘機は作りにくそうだ。

 作り始めると、インストラクションが簡素であることにびっくり。レゴの丁寧で順番から何から全てを記したインストラクションに比べると手抜き感がある。ナノブロックはパーツが細かいので、本当ならより丁寧に説明を書く必要があると思う。色の違いもわかりにくいし、インストラクションはレゴの圧勝。
 ナノブロックの組み立て(積層)はレゴとは全く異なる。レゴの場合、1ポッチに付けられるのは1ポッチなので、3×1ポッチのブロックの上には3×1ポッチのブロックしか取り付けられない。ナノブロックは3×1ポッチのブロックの上に2×1ポッチのブロックを取り付けられるようなフレキシブルな仕様となっている。まあ、逆に言うと、パーツの保持が弱いということだ。穿った見方をすると、保持力が弱いからパーツを小さくして重量を軽くすることで相対的に保持力を高めているのではとも思える。積層については、ナノブロックは面白い反面、稼働のようなギミックはかなりヤワヤワだ。
 あとはパーツが小さすぎて作ってるうちに目がチカチカすることも欠点だな。インストラクションが詰め込みすぎで、作りにくい上に、残ってるパーツを見て「まだこれだけ作るのか……」と絶望していた。レゴの場合は、「まだこれだけ組み立てられる」という楽しさがあるんだけど。もっとも、ナノブロックのサイズに慣れている人はまた別の感想を抱くだろう。

 インテリアとしてだが、やはり迫力がない。これはナノブロックの宿命だな。人体模型として買ったが、関節が弱そうであまり動かす気にはなれない。おもちゃとしてではなく、モデルを組み立てて飾る用途だろうと思う。

2017年5月15日月曜日

「紙の動物園」(ケン・リュウ 著、古沢嘉通 訳、早川書房、2015)

 面白い。今更読み始めたのを後悔するほど面白かった。何でもっと早くこの作品を読まなかったのだろう、と思うほどである。実は、この作品を読んだすぐ後で次作の「母の記憶に」を注文してしまったほどである。
 一般的な西洋SFとは少し異なる情緒豊かな作品群になぜだか安心感を得たのだが、それは著者が中国系アメリカ人という前情報を得ていたせいだろうか。個人的にはSFというより幻想文学的と読んだ方が良く、それもあってSF特有の無機質さが緩和されていたと思う。
 本書は日本独自の編集ということもあり、著者の作品の中でもトップレベルの物が詰まっている。次の短編集がどれくらい面白いかが愉しみである。

 表題作の「紙の動物園」は有色人種の移民とアメリカでの生活をスパイスにして、移民の母子の断絶と後悔を描いた作品。非常にウェットな作品で……正直、中国系アメリカ人によるSFと冠していなかったら評価が落ちていたと思う。タイトルである紙の動物は実のところ、あまり物語に影響を与えない。本文でもほのめかされていたが、紙の動物たちはあくまで母の記憶を象徴するガジェットでしかない。せっかく紙が動物になって生きているのだから(これって式神みたい)、もっとそこを押し出しても良かったと思う。そして主題である母子の断絶だが、もう1つの重要なファクターである父親があまり描かれなかったせいで片手落ちだと思う。主人公の母親は人身売買さながらに中国よりアメリカに嫁いだわけだが、なぜ主人公の父親は彼女を買ったのか。なぜ彼女に英語やアメリカの教育を施さなかったのか。最初読んだ時には感動したんだけど、でも単純に「泣ける作品」では終われないような黒い部分があり、そこを描ききれていない感じがした。
  次の「もののあはれ」は美化された日本の心が何というか、読んでいてむず痒い。ケン・リュウの特徴として、日本人から見ても日本の風俗・習慣に違和感がないということが挙げられるが、そのため日本に対する微妙な美化が目に付くのだ。この作品もそうだし、歴史改変SFである「太平洋横断海底トンネル小史」だって半ば大東亜共栄圏の思想が半分近く成功しているという意味で美化されているし、「文字占い師」も東アジアの歴史の影を書いていながら日本を懐かしむ部分がある。何も日本を褒めるのが悪いということではないのだが、ネトウヨ的な褒め方でもなく、平凡なおっさんのような何も考えていない褒め方とも違う作者の美化の方向性は、かえって外国から見た日本的な違和感を感じさせるのだ。ところで訳者解説で著者は日本の小説について、主人公は困難を解決するため積極的に行動する方向性とは反対みたいなことを言ってたらしいが、何を読んだのだろう。西洋的な小説と対比したいのでもう少し詳しく知りたい。
 「月へ」はアメリカにおける難民や亡命者の申請を、中国民話的な月の世界に住もうとすることと重ね合わせる幻想的な、しかし逆にリアリティさが重い作品。月の世界が比喩であることはわかりやすかったので、ほぼアメリカの難民申請の作品として読めた。かなり辛い作品である。
 この短編集の中で一番アイデアに驚いたのは「結縄(けつじょう)」。縄の結び目で文字を表現する発想にも、それがDNAと関連する発想にも驚いた。さらに、遺伝子改良された農作物は繁殖できないようにされているので毎年種を買わねばならないというのはたしかナショジオとかで読んだことがあるが、資本主義の権化のようなその作物(しかも落ちに使われる!)と、製薬会社に多額の利益をもたらした縄文字解読が無報酬で収奪されたという対比は見事である。
 「太平洋横断海底トンネル小史」は歴史改変SF。日本の侵略がなく、アメリカとの戦争もなかった東アジア(さらにナチスも早々と失脚する理想世界)ですら起こるアジア人間の人種差別や共産主義者への弾圧を描いた作品。まあ、共産主義者への弾圧はともかくとして、アジア人内の序列は脱亜入欧が保持された世界線なのである意味当然とも言えよう。歴史改変SFなら「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」の方が面白かったぜい。
 「潮汐」は幻想小説。今まで読んだ限りだと、著者はコテコテのSFより今作のような奇妙な味的作品の方が魅力があると思う。
 「選抜宇宙種族の本づくり習性」は宇宙人それぞれの本(記録)の文化を紹介する小品。ギャグSFかと思いきや、記録方式がリアリティがあって、長編にしてみたら面白いかもと思った。特に心が石でできている無機物宇宙人が、子供を作る時に親の心(石)の一部を子供の心(石)の元とし、先祖代々より文字通り心が伝えられるというのはSF的なガジェットとして面白い一方で、儒教的な祖先信仰が暗示されているのではないだろうか。
 そんな中国チックな要素が全面に出たSFらしきジャンルが「心智五行」。でも作中の五行思想ってあまり物語に絡んでない気が……ゴニョゴニョ。この作品の肝は体内の微生物(バイオーム)が人間の性格にまで影響を与えているという仮説で、これはNHKの世界のドキュメンタリーで観た! 著者としては五行思想と微生物とで関連性を出したかったのだと思うが、悲しいかな僕に五行思想の知識がなかったもんでそこら辺読み飛ばしてしまい、単なるバイオームと恋愛小説と認識してしまった。中国らしさでいけば上にも書いた「選抜宇宙種族の本づくり習性」の方があからさまでない分、興味深い。
 さらに、「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」はデータと現実の違いについて描いた作品なのだが、この作品に出てくるデータ人類はそれぞれ親のデータ(心)の一部を受け継いでいて……おお、これも儒教的な祖先信仰ではないかと気付いたのだ。シンギュラリティというソフトウェア化した生命はコンピュータの中で今の人類よりも遥かに発展した科学を理解し、そして3次元の現実では出来ないことまで行える。なぜならデータの世界だから。それと対比して生身の肉体を固持した母親を登場させ、なぜ彼女はわざわざ物質的な体験を重視するのか、データで得ることの出来ない現実の感覚とは何かを描き出す、描き出そうとするんだけど……。端的に言って失敗していると思う。主人公の少女はデータとして生まれたのだから、生身の肉体を持つ母親と同じメンタリティを持つことに疑問がある。さらに、生身の肉体を持つ母親にとってデータの世界が単なるシミュレーションにすぎないのと同様に、データの肉体を持つ主人公にとって物質界とは情報が削ぎ落とされた世界でしかないのでは? 特に主人公は4次元空間で生きていたのだから。
 個人的にはスマホが普及して文字を読む習慣が減ったというニュースを見て、息子に本を読めと説教する凡庸な親父という感じしか持てなかった。精密なシミュレーションが現実でないと言うが、そもそも脳だって人間の感覚器官だって別に現実を正確にフィードバックしているわけでないし……。この作品は西洋人的なオリエンタリズムへの憧憬を感じてしまった。

 「円弧(アーク)」と「波」。永遠の命について描かれた地球編と宇宙編という触れあいだが、それだけではないと思うのだ。僕は宇宙編である「波」が好きだ。それは単に不死であるだけではなく、その先のソフトウェア化した生命や宇宙の一現象となった生命のあり方まで描いた作品だからだ。一方で「円弧」はまだ人間の範囲しか描いていなく、リアリティがある一方でワクワク感は「波」に及ばない。このワクワク感というのはグレッグ・イーガンのディアスポラを初めて読んだ時に似ている。人間から遠く離れた姿を持つ生き物だか何だかわからない存在が、実はどこかで人間と共通点を持ち、彼らの悩みがいつの間にかリアリティをもって感じられる流れ。人間を捨てて実行したプロジェクトが後から開始した人々に追い抜かれ、それでも次のプロジェクトに進む様は「人間」らしさがあって良かった。「波」は長編で読みたいんだけど、短編だから強く輝いたのかもしれない。
 そのグレッグ・イーガンが得意とする意識や認識の問題を主題とする「1ビットのエラー」。宗教は単なる認識の誤りに過ぎないと理解している主人公が、救いを求めて信仰を得ようとする作品である。僕は結構この主人公が好きだ。彼は科学でもって感情を――この作品風に言うなら1ビットのエラー――を引き起こそうとする。単に人間にとって宗教は大切だとか言うのでなく、自分にとって宗教が必要だから積極的に発現させようとする姿。いわば、脳に化学物質を制御できる装置を取り付けて、幸せになりたいからその装置を操作する積極性が好きなのである。
 とはいえ、読めば読むほど、主人公は信仰ではなく奇跡が必要だったのではないかと思える。主人公が求めていた体験は明らかに大半の人間が得られないような、ある意味で神の啓示的なものであり、それがなければ信仰が得られないと主張する主人公は本当は物語の最後になっても神なんて信じてないのだろうなと思う。上で僕は、脳に化学物質を制御できる装置を取り付けるとか書いたけど、恐らく主人公に必要だったのは「偶然」その手の「体験」をすることだったのだろう。宗教を信じられないのもある種のエラーなんだなと感じさせる作品。

 「愛のアルゴリズム」。読んだ翌日、内容が思い出せなかった作品。まあ、普通の「SF」じゃないかねえ。
 「文字占い師」はSFでも幻想文学でもない政治的なテーマの作品。内容については何の知識もなかったので、東アジアについて知らなくてはならないと反省。この作品については一切、偉そうな口をきくことは出来ません。
 最後の「良い狩りを」は訳者が大好きというだけあって、そう来たか! 中盤までは恋愛小説でも妖怪退治小説でも行けるのに、スチームパンクな変身ヒーローにする手腕は見事。それでいて妖怪成分も恋愛成分もちゃんと残っている。アジア的な妖怪が西洋的なヴィランへと新たに意味付けながら「変身」するのはワクワクした。

 正直、著者が中国系アメリカ人で、この短編集もアジア的な情緒が多いという評判に引きずられた感想となってしまった。読んでいて思ったが、妖狐とか月人とか中国の妖怪を現代に蘇らせ異なる意味付けをするスタイルは芥川龍之介にも通じる。同じ中国系アメリカ人によるSFといえばテッド・チャンを思い出すが、テッド・チャンがストレートにSFで、そしてアジア要素が薄いのに比べればケン・リュウはまるで正反対。そのため最初に書いたが、「我こそがアジアン」的な主張が感じられ、実は僕にとってはそれが心地よかったのだが、一方でそれは西洋の目を通じたアジアなのだろうとも思えた。つまり、僕はこの作品集のアジア要素に懐かしさを感じたんだけど、でもそのアジア要素はわざと濃く味付けした人工物なのだろうということ。もちろん人工物だから全くの偽物だと言うわけではないが、この作品でアジアの美や日本の美を感じるのは危ないと自戒する。
 あくまでSFなのに東洋的という点が珍しく、それで高い点数を付けた面もあるので、とりあえず次の短編集を読まねばこの著者の広がりを評価できないだろう。

2017年5月10日水曜日

サディスティックサーカス2017Spring

 もう2週間も経ってしまった。4/22にサディスティックサーカス2017Springを見てきたのだった。今はサイトもクローズされているが、上演前は催し物が紹介されていて面白かったぞ。
 この舞台は初めて見たのだが、かなり面白かったので、ツイッターで流した感想を整理して書く。

 全体的にはショッキングというよりアングラなショーと笑いが多く、非常に楽しめた。でも後述するが、一部本当に流血もののヤバい出し物があって、たしかに20歳未満は入場厳禁だろう。
 会場はパイプ椅子。6時間座りっぱなしだと腰とお尻と太ももが死ぬ。下手するとエコノミー症候群になるので休憩時間は積極的に歩いた。1つのショーは20分程度で終わるので、席から立ち上がるのは比較的抵抗なくできる。次のショーが始まったら急いで自分の席に戻る的な感じで十分。中にはパイプ椅子で眠っている猛者もいたが、かなりしんどいだろうに。立ち見席もあったが、6時間立ちっぱなしはさすがに僕の歳では無理だと感じた。
 物販も行ってるが、フェチ系の画集など「そーゆー感じ」の売り物。中野のタコシェあたりで売ってそうで、アングラは業界が狭いと痛感。スタッフは銀座のバーのホステスさん達? 全員思い思いのセクシーな衣装を着て、でも健全な感じもする。人目を引くのは乳首にシールを貼ったお姉さんだが、個人的には銀色のピッチピチの服のお姉さんがフェティシズムを刺激してヤバかった。結構、スタッフの方と観客で知り合い率が高そうである。お客さんはかなり女性も多く、有名と思われる男性の出演者には黄色い歓声があがったりする(もちろん普通に女性出演者に歓声がかかるのだが)。演目は性に絡んだのが多いが、恐らく女性が見ても楽しめる内容なのだろう。萌えみたいな要素は一切出てこなく、それがまた格好良い。
 1つ目はバーレスクショー。最初だからおとなしめの出し物。ダンスは一糸乱れず美しい。下着姿で踊っているが、まったくエロさはない。
 2つ目は見世物サーカス(の前半)。鼻に釘を刺したり、剣を飲み込んだりとこれぞサーカスって感じ。力持ちのプリンセスが耳や女性器周辺に重いものをぶら下げるショーはそういう技を持った人がいることは知ってたが、いざ目の前で見ると迫力ある。惜しいのはビデオカメラが寄ってくれなかったこと。このサーカスはせっかくビデオが回っているのに、アップにしてくれないのね。このショー以外も微妙にカメラのアングルが良くない。上からとか別に見せなくて良いから、クローズアップしてくれ、クローズ・アップ!
 3つ目はフラフープ芸。落とさずフープを回し続けるのは圧巻。点滅するフープを使うと見た目以上に高速で回してるように見える。女性器をイメージしたマスクを付けてたが、蜈蚣Melibe氏のアノマロカリスだと思った。衣装も綺麗。途中で衣装を脱いだが、あまりのガリガリさに違う意味で心配になった。あと母乳を出してた。
 4つ目は山姥。観客参加型の緊縛ショー? ストーリーはわからないが、縛られ役の人が観客に紐を引っ張られ、ラバータイツと緊縛でプルプルしてた。赤ペンキでウェット&メッシーになり、これは血糊かと思いきや、刃物あるのに刺さなく、あの赤ペンキは何だったのだろう。
 5つ目はジャグラー。剣を4本お手玉にする姿はどこかで見たことあると思ったら、京劇だ。体術も京劇の舞踊そのものだ。でも見たことあるからと言って色褪せない。やっぱり自力で曲芸する姿はすごいとしか言えない。
 6つ目はダンス。最悪。点滅ライトを客席に向けたり(眩しくて目がチカチカする)、即興の痙攣ダンス。これは芸なの? ダンスもバーレスクの美しさ、体術もジャグラーのテクニカルさに比べると落ちる。そういう路線じゃないと思うけど、どうしても比べてしまった。正直、僕はこの芸がすごいとは思えなかったな。
 7つ目はおベガス!というグループ。音楽に合わせてダンス。ノリが良く素晴らしい。ドラァグクイーンの2人が歌もダンスも高水準だった。もちろん他のメンバーのダンスも素晴らしい。新宿で時々出ているらしいので、見てみたい。
 8つ目は見世物サーカス(の後半)。ショーも後半なので過激になる。鼻から口にストローを通す。大きなハサミの刃を1つずつ2人で飲み込む。ガラスを食す、など。一番ヤバかったのは針を体に刺す芸。流血注意のアナウンスが流れ、逆に他の演目でこのアナウンスが流れなかったら本物の流血じゃないのかと安心感。針は貫通してました。見てる内に貧血を起こして途中から見れなかった。自分の限界や苦手ジャンルを知れて良かった。次回見るときは胃の中を空にしよう。ちゃんと出血していて、でも全く痛い素振りを見せないのには驚いた。
 9つ目は豚のラバースーツを着たコント。出血ショーの後で見るとほのぼのしてて良い。中身は豚が屠殺されるって話だけど。
 10個目は切腹芸。流血のアナウンスが流れないのでニセモノだ! でもこぼれ落ちた血と臓物ってどこから出したんだろう。
 11個目。ゲテモノ歌劇。排泄物を投げる演出があったが、これは本物? 乱闘シーンは本当に蹴る殴るしてて迫力があった。寸止めしようとして出来てないのがリアルである。最後に客席に演者が落ちてしまい、ぶつかった客が汚れてしまってご愁傷様である。次にこのサーカス見る時は最前列はNGだろう。
 12個目は本物の緊縛ショー。縛るのって時間かかるんだね。そして縛られる人はかなり体に負担がかかってそう。空中に吊るのも短時間ですませていた。ショーとしては、縛る方より縛られる方が魅せていた。これで出し物は終わり。
 11時開演、5時終了。1つの演目は10分~20分前後で色々あるからどれかは楽しめるはず。性的な演出はあまりなく(衣装を脱ぐくらい)、上品さも感じられる。少し困った点として、会場が7階かそこらだったが、エレベーターの稼働が悪かった。他の階に行くお客さんに配慮したのだろうが、他に客がいなくても3台ある内の1台しか会場に連れて行かない。そして列はビルの外に並ばせる。当日雨が降っていたので、もう少し配慮してほしかった。それ以外、演目は素晴らしかった。大人のアングラ芸が見たければぜひとも行くべし。個人的には1番と8番のサーカスが体張ってて興奮(および貧血に)した。

2017年3月31日金曜日

恋愛マンガ考

 何か、以前、こんなことを書いてたけど、蓋を開けてみたら3月だけでマンガを50冊近く買ってしまった……。本当に一時の迷いで書くもんじゃない。良くも悪くもマンガや小説や映画は僕にとって欠かせないものだとわかっていたろうに。
 今月買ったのは恋愛・ラブコメのマンガが多かった。自分ではかなり苦手だと思っていて、それで、やっぱ苦手だなーと再認識させられたジャンル。もっとも、これ以上にスポ根が苦手なのでまだましな方ではある。
 何で僕は恋愛系のジャンルが苦手なんだろうかと考えたら、もしかしたら僕はマンガを読むときに過剰に感情移入してしまうからかもしれないと気付いた。

 小説でも感情を動かす系の小説は思いっきり全ての登場人物になりきってしまう。フラットに読めるのって幻想文学みたいな不思議系のジャンルじゃないかな。
 マンガに至っては、読者に登場人物目線にさせる技術が発達しているせいか、もろに感情移入してしまう。もう、キャラクターの好悪の感情に共鳴して疲れるのだ。これが「人類の未来は!」的に大風呂敷を広げる作品ならば読んでるうちに自分と作品を切り離せるのだが、リアルな生活・個人的な話題・俗な小道具――つまりは恋愛――をテーマにされるとキャラクターの感情に心を合わせる。その一方で物語の構造を把握しようとするため、冷静に読もうとしているにも関わらず感情は上下するという疲れる状態になる。特にラブコメ系だと偶然を多用するシーンが多いのでご都合主義だと思いつつもドキドキしていた。
 正直、時間が経てば冷静になれるのだが、元々僕はマルチタスクができない人なので感情移入をしている期間はずっとその作品・そのキャラクターのことばかり考えている状態。いやはや疲れる。

 というわけで、やっと今まで読んでいた某作品を相対的に読める状態になった。この作品、まだ完結してないから、次巻が出たらまたこうなるんだろうな。本当に恋愛マンガは苦手である。

「Sing」(ガース・ジェニングス監督、イルミネーション・エンターテインメント、2016)

 ヤバい、良い物語だ。単純にいろんな洋楽が流れる華やかで楽しい作品でもあるし、夢を追うことの辛さや諦めることの楽さと手に入れた時の嬉しさを描いた作品でもある。
 登場人物それぞれの葛藤というのは、人生を多少経験した人間にとってはどれも思い当たるものはある。劇場再興のためオーディション開催を決めたみたいに何の保証もないのにプロジェクトを見切り発車してしまったり、恥ずかしがり屋で人前で歌えないみたいにチャンスを手放してしまったり。でも彼らはちゃんと努力をしていて、それを隠すなんてことはしない。相応の実力もあり、人に見せる勇気も出し、努力もし続ける。だからこそ、オーディションと言うかたちであれ、最後には自分たちの手弁当という形であれ、他人も応援してくれお金には換えられない価値を手に入れる。アメリカンドリームについてこれでもかと言うほど丁寧に描かれた映画だと感じた。

 ストーリーは王道。少しずつ何か欠けたものを抱えている人同士が集まって、大舞台を立ち上げ、挫折し、でも自分のためだけに再度挑戦することでみんなの心を動かす。これが歌のコンテストという題材で描かれている。彼らが抱えている欠落は僕達にとって身近で、形は違えど経験したことがあるものばかりだ。唯一、あの羊の坊っちゃんは行動に緊迫性がなくあまり感情移入ができなかったがそれは些細なこと。
 憎たらしい敵役もいなく、ハッピーエンドになるか否かは自分の頑張りにかかる構成は、いまだに夢を見ている人間としては勇気が出た。同時に、やっぱり何が何でも挑戦しなくちゃ結果は出ないんだよね、とも思う。
 この作品をかつて夢を追っていたであろう映画界の人々が作ったことに意義がある。夢を成した彼らが、まだ夢しか見ていない人間へのエールとして作った作品とも観れ、僕は漠然と挑戦しなくちゃと決意した。具体的な考えは何もないが。

 とは言え、何も考えずに洋楽だけ聞くのも正しい見方だろう。せっかく優れた物語とそれを盛り上げる音楽があるのだから、難しいことを考えずに見ても楽しめる。

「眠れる森のカロン」(茂木清香、講談社、全3巻、2017/3/17)

 いったいどういったきっかけでこの作品に出会ったのだろう。確か可愛らしい絵柄で暗黒童話などというキャッチコピーに惹かれて買った気がする。死をもってすら償うことのできない加害者に、死以上の刑罰を課すシステム。その終わることのない罰――加害者の意識を何度も破壊する暴力なのだが――を見て、被害者は加害者を赦すのだろうか。そしてそもそも社会より認められているこの刑罰の目的は何か。刑罰の管理者はその内容をモニタリングしているが、悪趣味な欲望(作中では殺人鬼コレクターだった)が含まれてるのではないのか。このシステムが暴走する危険はないのか。
 そんな内容が3巻にまとめられた濃い作品である。

 作品のテーマは極めて現代的だ。過失などではなく、故意に、しかも楽しんで、何人も殺人を犯した加害者を社会はどのように対応すれば良いのか。似たようなテーマの作品はいくつもあって、「マイノリティ・リポート」や「PSYCHO-PASS」なんかは予知・予防に重点を置いた。一方、この作品は罰則の強化で対応する。加害者の脳と被害者の脳の残骸をつなぎ、意識をシミュレートして被害者(の意識)が半永久的に加害者(の意識)をリンチするシステムを作り上げてしまったのだ。予防なんかよりもはるかにリアルさがある。何と言っても、予防って確実に予防ができる保証はないんだよね。「確実さ」を謳えるのは結局フィクションの世界だからであり、だとすると予防に力を入れるよりも対策に力を入れるほうが効率が良く、現実もそうなってると思う。とはいえ、犯罪の刑罰にも物理的な限界はある。現実でも周期的に社会的議論を引き起こしてたりする。その1つの結論が、第1巻~第2巻で描かれる上のシステムなんだろう。

 ただ、マンガではまるでおとぎ話みたいな絵柄で読んでる間は騙されてしまうのだが、文字に起こせば「それって何かおかしくない?」と思えてくる。そう、この作品で描かれる刑罰って果たして本当に社会のため、いや、被害者のためになってるのか?
 このテーマが現れる第3巻はスリリングだ。いかにも社会的利益がありますみたいな顔をして構築されたこのシステムが単なる好奇心でしかなかったことが顕になる。作中では上にも書いたとおりこのシステムの開発者は殺人鬼コレクターだったらしいが、どういうこと? この部分は少し不満があって、個人的にはこの刑罰が誰でもモニタリング出来ることで大衆の殺人ポルノへの好奇心を満たしていたことにした方が普遍性はあったと思うのだが、それは細かなこと。
 結局、システムは破綻し、新たなる犯罪者が野に放たれるという展開で終わる。そもそもこのシステム自体、被害者感情を満足させる程度の役にしか立っていないので、トータルで見ると社会にとってはマイナス。

 たぶん現実社会にフィードバックできるものはあるだろう。僕も凶悪犯のニュースを聞いたときに厳罰を、とも思うのだが、それは単なる感情論であることも事実。そしてその感情論の行き着く果ての1つがこの作品になるのだろう。
 この作品で隠されていることはもう1つあって、この作品ではシステムのAI(正確にはバグ)が殺人への興味を持ってしまったが、似たようなシステムが実現できてしまうと周囲の人間こそが殺人に興味を持つのではないかということ。ミイラ取りがミイラになるというか、深淵を覗く時深淵もまたこちらを覗いているというか。刑罰というものについて考えさせられる作品。

2017年3月14日火曜日

「猫戸さんは猫をかぶっている」(真昼てく、双葉社、全3巻、2017)

 最高級の作品である。設定に対する言及・テーマの深さ・キャラクターの無駄のなさ・伏線の張り方・シリアスとコミカルの配分など、どれをとっても1級品。先日、偶然店頭の平積みを見て購入したのだがこんなことがあるから本屋に足を運ばねばならないと強く思った。この本を置いてた書店は今日から三日三晩繁盛するよう祈り続けないといけない。
 ジャンルはラブコメ。僕自身はあまり恋愛がわからないので、もともとはラブコメに興味がなかった。ラブコメと呼ばれる作品を鑑賞するときは短く終わる作品を選んでおり、それは恋愛関係を描くには長いとだれてしまうと考えているからだ(正確には、長いラブコメは恋愛よりもキャラクター劇を描くことにシフトしていると感じられる時が多かった。恋愛をメインに描くなら数巻で終わらないとダレるという持論)。なのでこの作品を買おうと思ったのは3巻で完結するという、ただそれだけだった。あ、あと、表紙が可愛い。女の子の頭の上に猫が乗ってる。あらすじを読んでいなくても、この作品には鋸女神(cf. School Days)は出てこないとひと目で理解させる良い構図である。ほんわかした絵柄で、内容も笑えそうだな。そんな感じで何の気なしに買った。

 読み始めると僕の勘は外れてなかったことに安心した。「猫をかぶっている人の頭の上に"猫"が見えてしまう体質」と公式サイトに書かれているが、それでも過度にファンタジーにならず日常的な少し不思議さ程度で留めてくれている。登場人物は、猫をかぶっていることが100%見えているため人との付き合いに壁を作ってしまう主人公(男子高校生)や、そんな彼が好きになる全く猫をかぶらない少女、常に猫をかぶっているので主人公が苦手意識を持っていたら実は同じくかぶっている猫が見える体質だったもう一人の少女。主人公が高校生活を送る上でこの二人に関わる様をコミカルに描かれており、王道のラブコメって感じである。キャラクターの行動原理にも疑問はない。周囲の人が猫をかぶっていることがわかる主人公が全く猫をかぶらない少女を好きになるのは順当だし、そんな彼が「同士」である常に猫をかぶる少女に出会い振り回されるのはこれまた当然。物語は、では主人公はどのように彼の恋愛が成就するのか、に焦点を当てて動く。

 当初は普通のラブコメだと思っていたのだ。かぶる猫が見えるというのはあくまでも物語の取っ掛かりで(これはもう失礼な話なわけで、申し訳ありません)、話が進むに連れて猫の設定は薄くなるのだろうと。ある意味で猫をかぶるのがわかるって、恋愛によくある心理描写と真っ向から対立していないか? 
 しかしこの「かぶっている猫」の描写は物語のラストまで現れる。登場人物が猫をかぶった際に頭の上に描かれるのだ。それも1コマ単位で。このことによって読者はそのキャラクターが猫をかぶっているとわかり、それゆえマンガでよくある心の声(モノローグ)が少なくて済む利点が出ているのだ。あのモノローグもラブコメっぽくて好きなんだけど、過度に使われるとウザいわけで、今作品くらいのボリュームが好みだな。副音声マンガにならなかった時点でこの設定はすばらしいと考え直した。

 しかも物語は途中から、いや1巻の後半から「猫をかぶる」意味自体を問いかける。そもそも猫をかぶるとは嘘をつくことではない。ほんの少し本音を隠すだけだ。では何で人は猫をかぶるのか。
 それが問いかけるのは新たにヒロインが登場してから。人見知りで要領も良くなくて、マンガの設定上、飛び抜けて外見が可愛いわけでもない地味な少女。彼女が主人公に惚れて、そしてその恋が終わる中で「猫をかぶる」ことの意味が徐々に明らかになる。
 詳細は読んでのお楽しみだが、ある意味で、猫をかぶるというのは好意の裏返しでもあり、それなら主人公が好きになった全く猫をかぶらない少女は果たして……となる。好意を抱くにつれて猫をかぶることを覚えた地味な少女と全く猫をかぶらない少女は対比関係にある。地味な少女は努力して変わっていって人付き合いも普通にこなせるようになった。全く猫をかぶらない少女は一貫して天真爛漫で何事も問題なくこなせる天才型だが、変わることはないのだ。これは多分すごい残酷なことだと思う。物語の中では掘り下げられてはいないが、少なくとも高校生活の範囲内では、猫をかぶらなくても人付き合いを難なくこなせてしまうということであり、それはそれで孤独なのかもしれないなと感じた。恐らくこの全く猫をかぶらない少女は、他のキャラの本音を見抜くような描写があったので、自分だけが猫をかぶっていない=自分独りというのはわかっていただろうに。

 そんなこんなで、最終的にはかぶった猫が見える少年と少女同士の関係性にクローズアップされる。前々から感じていたが、主人公に片思いの人がいて、でも他のもう1人のヒロイン(男女問わず)から片思いをされるタイプのラブコメって読んでるうちに片思い対象のヒロインではなく主人公に片思いをするヒロインに魅力を感じる傾向がある。これは主人公と絡むのが主人公に片思いをするヒロインだからなのだが、今作も正にそうだった。主人公が片思いをする対象のヒロインって物語では掘り下げが不十分になりがちで人間性を伝えきれないのだ。今作はそれを逆手にとって、だから主人公が片思いをするヒロイン=全く猫をかぶらない少女はミステリアスな存在として終わりに至るまで描かれていた。主人公だけでなく読者ですら彼女の本心が読めなかったのだ。それは、高校生っぽい主人公たちとは全く異なる、大人であるということなのかもしれない。最終的に主人公は彼なりの「猫をかぶる」意味を見出し、恋をするという綺麗な描写で終わる。

 無駄なシーンはなく、無駄なキャラクターもいない。恋が実らないことを位置付けられていた地味な少女のフォローも最終巻で怠ることはない(終わってから見直すと、彼女は主人公に惚れたというより懐いただけじゃないのとも思える)。そもそも彼女が猫をかぶる意味を間接的に教える役割を担っているのだ。作者が登場人物を丁寧に描き上げたのは伝わってくる。
 彼らはまた、全員前向きで高校生らしい明るさもある。その輝きはおじさんになってしまった僕にとっては多少眩しいんだけど、でもこのマンガを読んで力をもらった気がする。彼らは若さゆえの行動力があり、告白するかどうかで長々と話を引っ張るなどしない。キャラクターも立ってて3巻で終わってしまうのはもったいないと強く感じたんだけど、逆に3巻でまとまったからこそ濃い内容で読み応えがあるのだ。腹八分目という言葉通りもっと読みたいというくらいがちょうど良いのだろう。



 非常に丁寧に作られた作品だ。猫をかぶっていることがわかるというネタから人間の本心とは何かということまで話を広げている。猫をかぶることは嘘をつくことではないし、そもそも「白い嘘」という言葉がある通り、嘘自体も人間関係を円滑に進める上で多少は必要ではないか。だとしたら、かぶっている猫が見える2人はある意味で不幸なことで、でもそれに折り合いをつけられたハッピーエンドは幸せそうで良い。
 この作品は始終明るく、シリアスはシリアスに決めて、最期には笑えるようにしてくれている。最初に絵柄が可愛いと書いたが、その可愛らしさには明るさがあり、キャラクターの表情や仕草が見ていて安心感がある。実は今、他のシリアス系恋愛マンガを並行して読んでいて落差が激しいというか、辛くなったら読み終わった本書を再読するという読み方をしていて、一種の清涼剤的な効能がある。
 萌え絵というものが苦手でなく、またラブコメ(純愛)に嫌悪感がある人以外なら楽しめるだろう。深読みだってでき、SF作家の書くエブリデイ・マジック系列の人間性について考える作品としても使える。萌え絵としては万人受けする絵柄なので表紙を見るだけでも癒やし効果がある。たった3冊買うだけでこんなに楽しめるのだから非常にお得。
 というわけでぜひとも買うべきだ。買ってこの作家を応援しよう。また別の連載を持っているらしいがぜひとも単行本で読みたい。

2017年3月3日金曜日

コンテンツ鑑賞を趣味にすること

 もう僕もおっさんと呼ばれる歳になったんだ。
 そんなわけで、少し前から自分の荷物を整理していた。
 僕は小説やマンガや映画やアニメの鑑賞が趣味なんだけど、薄々気付いていた恐ろしいことを実践していたのだ。それは、要らないものをバッサバッサと捨てていたのだ。音楽CDはmp3でHDDに入っていれば良い(HDDが故障したときのためにバックアップを取っておこう。不幸にも本体とバックアップの両方が一気に故障したときに備え、ウォークマンに最低限欲しいものを入れておこう。ウォークマンすら壊れたら、そのときは諦めよう)ので、CDは捨ててしまえ。マンガもデータ化して現物は持たない。そもそも買うマンガ自体減らそう。小説は最低限欲しいものだけ書籍で残す。ちくまと河出と講談社学術と中公の文庫は残す。新書とか四六判とA5判とか呼ばれるやつは、時事ネタが多いのでOCRのPDF化決定。たぶん読み返さないだろうけど。ハヤカワ銀背とバンド・デシネは画集として書籍のまま(日本のマンガとの扱いの差は……)。そもそもベルセルクとファイブスター物語と手塚治虫と諸星大二郎と駕籠真太郎とセントールの悩みと他いくつかしか読み返してない気がする。映画はデータ化が一番進んでおり、円盤で持ってるのは初回特典が付いてるものだけ。他は引っ越ししたときに捨てちゃったなあ……。そもそも映画ですらフルでの見返す機会は少ない。データ化したら、お気に入りのシーンだけを眺めるスタイルに変わっちゃった。通しで見なくなったってのが映画業界に与える打撃は大きいかもしれない。
 そんなことをふつふつと思いながら、書籍棚を見る。大昔、ミステリーやサスペンス小説を諦め、それからさらに経ってライトノベルを止めたんだけど、そろそろまたフォローするのを止めるジャンルが出てくるかもしれない。いわゆるSF小説やファンタジー小説、ファンタジー入った文芸をメインで読んでるけど、SFもきつくなって来たかもなあ。奇想を味わうならファンタジー小説の方が面白いからなあ。グレッグ・イーガンとか好きだけど、イーガンの短編集のようなリアリティのあるSFって現実世界を舞台にしたワンアイデア小説に近いからSFのワクワク感ないんだよなあ。イーガンは好きだから今後も読み続けるけど、SFをどうするかはわからん。
 それよりもこちらだ。安部公房、芥川龍之介、岡本綺堂を始めとするファンタジー入った古典日本人作家を読まねば。見栄で夏目漱石とか江戸川乱歩とか志賀直哉とか持ってるけど捨てよう(でも井上靖はしろばんばと西域ものだけは取っておこう)。少し不思議なアイデア成分が足りんよ。ちくま学芸文庫とかも教養として持ってた本の内、半分以上は時代遅れになったりしてるからな。ハヤカワNFもあまりに俗すぎるのはゴミ箱行きだ。文芸は河出と創元さえあれば十分だな。

 こうして考え出すと、意外と言うべきか、やはりというか、古典と呼ばれるコンテンツは強い。古びすぎてしまい、かえってエッセンスだけが強く濾されているのだ。これが現代を舞台にした小説だと、いくらテーマが良くても10年20年したら風俗習慣技術が時代遅れになってしまい読めないだろう。上ではあまり触れなかったが、音楽にしても定番だのヒット曲だのは強い。クイーンのボヘミアン・ラプソディなんか、最近はやったほとんどの邦楽洋楽よりも実験的で若い曲なのだから。
 流行りを追いかけて蝶や蜂のように様々な花の蜜を吸うのも楽しかったのだが、若くもなくなってくると飛ぶのもしんどいんだ。おじさんにとっては最新の設定が詰まった映画よりも評論されつくした白黒映画のほうが見やすいのも事実。
 正直、クラシック趣味はあまり魅力を感じていなかったが、徐々にその面白さがわかるようになって、じゃあ今まで新しいものを必死で楽しんできたのは何だったのだろうと思ったり。これって昔は野菜が嫌いだったけど、おっさんになって居酒屋とかで焼き茄子やピーマンの炒めの美味しさを力説するのと変わらない気がする。

MASK

 ついに寝るときにマスクを付けてしまった。もともと花粉症気味で、僕の場合は喉に炎症が出てしまい、咳をしがちになる。
 さらに、鼻もつまり、特に夜寝るときに口呼吸をしてしまう。2月・3月の寒い時期なんかはそれでさらに喉を壊すという負のサイクルが出来上がってしまうのだ。
 僕の場合、服を大量に着込めば何とかなる生活スタイルで(暖房代ももったいないし)……なんて思ってたら、今年も喉をやられた。毎年喉がイガイガになり、非常に不快なのでなんとかせねばと考えていた。
 そして今年ついに、寝るときにマスクを付けることに決意。すると昨日までのイガイガがウソのよう。やっぱり喉に違和感を感じるが、寒さが原因と思われる焼け付く痛みは緩和された。
 僕はもう、寝るときはマスクが手放せないんだね(季節限定だけど)……。

2017年2月28日火曜日

日光紀行

 2月11日(土)から14日(火)まで4日間、日光に行ってきた。目的は1人になること。今でも十分1人だが、パソコンもスマホもない世界でのんびり過ごそうと思い立ったのだった。
 朝東京を出て、JRで昼頃宇都宮に着き、宇都宮で餃子定食を食べた。宇都宮駅周辺は駅ビルがあったのだが、喫茶店のチェーン店を探し、見つけられないまま駅近くの大型ショッピングセンターへ。その中にかなり広めの本屋があったので、数冊買ってしまう。本当なら喫茶店とかに入ってのんびりと読みたかったのだが、仕方がないのでショッピングセンター内の休憩広場で読む。他に勉強してる子供が1組。あとは待ち合わせの女性だけ。せっかくの土曜で誰も使ってなくて良いのかな、でもだから僕がマンガ読めるわけで……と思いつつマンガタイムを数時間取る。
 何でこんなことしてるかというと、僕が泊まる所は個人が経営するゲストハウスで、チェックイン時間が16時以降と厳密に決められているからだ。なのでそれまではせっかくの宇都宮駅を満喫せねばならない。
 数冊読んで3時間ほど費やし、15時半過ぎに出る。宇都宮からは日光線に乗るのだが、何というか、観光用の特別線という感じがして楽しみだった。電車の中もいろんな人が書いた習字が飾られ、外国人向けに日本の文化を紹介してやろうという気合が感じられたのだ。

 日光に着くと、きれいな街だな、というのが第一印象だった。そして人がいない、とも思った。時刻は16時過ぎ。すでに日も沈みかけ、寒さが厳しくなる中。今の時間に日光に来る人なんていないだろうと思い、事実、僕の他は数人しか電車から降りなかった。そんなわけで日光は人が少ない街と思っていたのだが、そもそもJR日光駅を使う人の数が少ないことをその時は知らなかったのだ。
 日光に到着したらまずゲストハウスにチェックインして荷物を置こうと思った。相部屋だったので良いベッドを取られてはたまらない。そう考えて歩きだしたが、それは遠かった。僕が泊まったのは神橋近く。JR日光駅からは歩くと20分以上はかかるだろう。地図を片手に、汗をかきつつ延々と歩き、距離感がわからないながらもとりあえず神橋(そして大谷川)を通ってないので行き過ぎてはいないと考えて歩き続けた。途中で民家が立ち並ぶ地域を通り、そこで猿の群れに遭う。やっぱり猿はいるんだなと思うと同時に、テレビなどで報道される猿に荷物を持って行かれる事件を思い出し、さっさと立ち去る。幸い猿は僕の後をつけていなかった。
 ゲストハウスでは先客がチェックインしていた。外国人の方で、今、日光は外国人観光客が多いらしい。僕が泊まるのも日本人より外国人のほうが多い宿の1つ。確かに6つのベッドの内、日本人は僕だけだった。でもちゃんと世界に通用する観光地になってるんだという妙な安心感を感じる。その夜は、イートあさいというお店で夕食。湯波ラーメンと餃子を食べる。お店の人は気さくで、僕が観光客なのを知ると地図や情報誌を見せてくれた。やはりお店は様々な国の人がやってくるらしく、壁にはお礼の手紙がびっしり。かと言って観光客専門ってわけでもなく、僕が食べていると地元の家族と思わしきお客さんがやってきた。安めで美味しくて満足。特に湯波ラーメンはあんかけラーメンかと思うほどスープがトロトロなのだ。そこに麺が絡みつき、薄味スープがしっかりと口の中に入る。湯波も食感があり、食べごたえ抜群。食べる前は、湯波はヘニャヘニャのブヨブヨだと思っていたが、平べったい麺のように噛める。美味い。でもお昼と晩御飯で食べ過ぎである。明日からは減らそう。
 銭湯も近くにあると聞いており、鶴亀大吉に行ったが、もしかして泊まりでなけりゃ入れない? ふらっとお風呂を借りる雰囲気ではなかったのでゲストハウスに戻ってシャワーを浴びる。その後、本を読みつつ就寝。

 翌日12日(日)は日光東照宮へ行った。途中で神橋を見る。どうもお金を払うと渡れるらしいが、どう考えても川を背景に神橋の写真撮ったほうが綺麗である。
 東照宮へ着いたのは9時過ぎ。東照宮自体は8時から開いているらしく、この時間はまだ人が少ない。昨夜、雪が降ったらしく、積もった雪を巫女さんが掃いていた。マンガで見るような赤い袴と白い着物の巫女さんを見て何か感動。よく考えたら1月1日も神社に行ったんだけど、そのときは人が多すぎて流れ作業だったんだよな。東照宮は真っ赤で金色で、異界の建物の様。山の中の神社だと思って地味な姿を想像していたが、かなり派手である。さすがは徳川家ゆかりだ。陽明門は工事中だったが、他の建物も面白い。昔、小学生のときに修学旅行で来たはずなんだけど、全く記憶にないなあ。おかしい……。
 東照宮は修繕工事で寄付者を集めているらしく、僕も僭越ながら5000円を支払う。

 変なおみやげよりこういうのにお金を使うと思い出になる。後日、お気持ちが送られてくるらしく、楽しみ。
 実は東照宮に来たのは、観光だけでなく御朱印を集めるためでもあったのだ。熱心なコレクターではないけど、そこそこ御朱印を集めており、それも紙でもらうのではなく、実際に書いてもらってこそ御朱印だと思っている。幸い、今回の旅はどれも直接御朱印帳に書いてもらう所ばかりで、嬉しかった。
 その後、輪王寺や日光二荒山神社でも御朱印をもらう。その途中、二荒山神社の分社(?)の滝尾神社というところを知り、明日行こうと決意。御朱印自体は二荒山神社で貰えるが(二荒山神社は周囲の人のいない神社の御朱印を代わりに発行しているらしい)、僕は自力でお参りしたところしか集める気はないのだ。
 お昼ごはんをという日本料理店で食べる。湯波の小鉢と鱒重だ。鱒のお重を食べてみたい! なかなか身が柔らかくて美味しかった。お店もモダンな雰囲気で、でも上品である。僕が行ったときはほぼ満席で繁盛していた。
 午後はどこかの喫茶店で本を読もうと思っていたが、何時間も居座れそうなお店が見つからない。さすがに観光客相手のあんみつ屋とか団子屋とかで本を広げ始める勇気はないなあ。東武日光駅まえに日光パークロッジ東武というホテルがあり、1階は喫茶店っぽかったのだが、そもそもやってるかどうかわからん。勝手に入ってしまったけど、誰も出てこないのだ。幽霊ホテルみたいで気味が悪いので外に出る。
 喫茶店もそうだけど、夜ゲストハウスで食べる食事とおやつが欲しい。実は昨晩であった外国人の多くはゲストハウスで料理をしていて、どこで買ってきていたのか気になってたのだ。調べてみると大通り(日光ロマンチック街道というらしい)から少し駅と反対側に行ったところにリオン・ドールというスーパーがあった。まずはここでおやつを買い込む。そして何と、イートインコーナーを発見。しかも誰も使ってない。これ幸いとジュースを買い込み本を読み始める。1冊読み切るまで滞在しよう。
 16時過ぎにゲストハウスに戻ろうと腰を上げた。チェックイン時間過ぎた。帰り際、職場の人へのお土産を買った。
 一度ゲストハウスで荷物を置いて、今日はお風呂に入ろうと決意する。JR日光駅近くの日光ステーションホテルクラシックで駅スパなるものを提供しているのだ。要は銭湯である。
 途中、さきほどお土産を買ったお店の近くで揚げゆばまんじゅうなるものを食べる。揚げまんじゅうだ。湯波は……感じられるかな? 正直、湯波は見た目で湯波だと認識して食べるほうが美味しいと思った。
 駅スパはまだそこまで混んでおらず、山登り帰りの人が数人いた。荷物でわかってしまう。久しぶりに湯船に入り満足。露天風呂もあり、お風呂の熱さと外の寒さがマッチしている。
 夜はゲストハウスで軽食を取った。日曜の夜のせいか、昨晩とは変わって誰もいない。観光客は帰ってしまったらしい。どうも日本で働いている外国人が多く、月曜から会社なのだそう。僕の他には台湾から来た人がいて、台湾で日本の仕事を探してるのーとお話をした。日本語上手いなあ。僕も英語頑張らねば。どうも彼女は台湾語・日本語・英語ができるそうだが、台湾ではさらに読み書きできる人々がゴロゴロしてるらしい。ヤバい。

 13日(月)はハイキングがてら滝尾神社など東照宮周辺の山を探索する。確かに無人の神社と言われていた通り、寂れている。そして平日だからか観光客にも出会わない。後々、日光ロマンチック街道沿いの旅館を見ていたら、土曜夜は満室だったのだが、日曜夜は空いていた。当然今日も空きだろう。観光って大変。そして今歩いている神社巡りの道も整理はされてるものの、土曜夜に降った雪が残っている。さてはあまり人が通ってないな。ふとクマに出会ったらどうしようと思ってしまい、早歩きで駆け巡る。
 滝尾神社も他の無人神社と同じように建物が残っている程度だった。近くの白糸滝は綺麗だったな。自称観光ガイド(?)の人がスタンバイしてたが、本当は何の人だったんだろう。観光ガイドなら雪を除けて欲しい。日光二荒山神社で御朱印をもらって帰る。
 お昼はまるひで食堂で湯波丼を食べる。あまりにも湯波が美味しいのでお土産に買って帰ろうかと欲が出る。でも絶対に家で調理すると不味くなるんだろうな。逡巡した末、買うのを止めた。お昼過ぎから雪が降っていて僕にとっては初雪である。
 午後は昨日と同じようにおやつを買いつつ、リオン・ドールで読書。リオン・ドール、閑散としている。車で来てるから地元の人だと思っていたが、もしかしたら観光客なのかもね。日光のこの地域自体、言い方は悪いが人が住んでいるという印象が薄かった。街全体が観光地みたいで、整備・統一されてるんだけど、仕事をするところも人が住んでる雰囲気もないというか。いや、初日に通った住宅地みたいに住人がいるのはわかってるが、あまりにも静かであった。こういうところに一度住んでみたいと思う一方で、何となく大変そうだと感じる。
 夜は数人観光客が泊まっていたが、リビングに滞在する人はいなかった。今回の客はみんな部屋に引きこもりマン&ウーマンである。

 14日(火)、帰る日。だが、朝から大雪だった。昨日、初雪だーと喜んでいたらこんなことになるとは。当初はチェックアウト時間の10時近くまでリビングでテレビでも見るつもりだったが、さっさと電車に乗ろうと考える。神橋からはバスが走っており、JR日光駅へ。着いたらすでに電車が出ており、次の電車は約1時間後。ああ、だからみんな東武を使うのね。電車がすぐに入ってきたので本を読みつつ出発待ち。
 宇都宮駅に着いたのはお昼少し前。やっぱり餃子を食べて東京へ。日光での降雪はまるで夢のよう。日光線に乗ってる最中で雪が降ってる地域と降らない地域がきれいに分かれていたのだ。やっぱり日光は日光の天気なんだな。しかし東北線の途中で大風および風によるゴミが線路に入ったことで電車が止まる。座れたから別に良いんだけどね。やっぱり朝早く帰って良かった。こうして日光の旅は終わったのだった。


 数日後、東照宮の寄附金のお礼が届いた。




このお箸は使うものじゃなくて神棚とかに飾るものなんだよね?